親友との出会い①イタリア軍とドイツ方面軍
ドゼの旅心
1792年、フランス革命政府の宣戦布告から始まった革命戦争は、97年春、一応の終結をみました。ボナパルト将軍率いるイタリア軍の活躍によって。
→ フランス革命戦争(ブログ)
革命戦争初期からずっとドイツ方面で戦い続けてきたドゼは、この泥沼の戦いを終結に導いた若き将軍(ボナパルトは彼より1歳年下でした)に、是非、会ってみたいと思いました。
ドゼは、知らない土地を歩き、人と会うことが大好きです。実は彼は、この春の最後の戦いで太股に被弾し療養していましたが、なんとか歩けるようになると、さっそくイタリア旅行を目論みます。
しかし、ドゼにはお金がありません。そこで直属の上官であるライン・モーゼル軍総司令官モローに、用事を作って自分をイタリアへ派遣してくれるよう、願い出ます。これなら、軍から旅費が出るからです。
モローはドゼが大好きでした(ヘンな意味じゃありませんよ? ライン・モーゼル軍に来て日の浅い彼は、5つ年下のドゼを頼り切っていました)。それで、なかなか戦争拠出金を支払おうとしないバイエルンとシュヴァーベンに対し、イタリアの勝者ボナパルトに睨みを利かせて貰う、という名目で、ドゼをイタリアへ派遣したのです。
ドゼはスイスを経由し、イタリアへ降り立ちます。高い山を上り下りするわけですから、途中、まだ傷が痛い、などとぶつぶつ言っていますが、この旅を楽しんでいました。
スイスでのあれこれとか、この旅のもう一つの意味については、いずれ小説に書きます。ドゼ将軍に対しては、私にも言いたいことがたくさんあるので!
ボナパルトの警戒
7月1日、ドゼはミラノへ到着します。
彼のイタリア到着は、ボナパルトを警戒させたようです。
ボナパルトは、ドゼに比べて経験が浅く、イタリア軍自体も、ライン・モーゼル軍やサンブル=エ=ムーズ軍と比べると格下だったのは否めないからです。
「勇敢なドゼ将軍がイタリア軍へ来た」
と、ボナパルトは派総裁政府へ報告を送っています。同時に麾下のイタリア軍に向けて、
「彼(ドゼ)は、イタリア軍が不滅の地位を得たことを認めるだろう」
と、声明を発表します。
是が非でも、ドゼ(ライン・モーゼル軍の将軍)に、イタリア軍の栄光を認めさせたかったわけですね。ドゼの鷹揚さに対し、ボナパルトの自信のなさと器の小ささを感じます。
冒頭述べましたように、イタリア軍の勝利で革命戦争が終結に導かれたのは間違いのない事実です。しかしながら、たとえば、オッシュのサンブル=エ=ムーズ軍は勝利目前でしたし、指揮官ドゼが狙撃されはしましたが、ライン・モーゼル軍もライン河の渡河に成功、サンブル=エ=ムーズ軍の南に展開していました(ここに後の元帥ダヴーもいました!)。ボナパルトが余計なことをしなければ、勝利の栄光は、この二つの軍のものだったのです。
言い忘れましたが、96-97年のこの戦いは、ドイツの北をオッシュ麾下サンブル=エ=ムーズ軍、同じくドイツ南をモロー麾下ライン・モーゼル軍、そして、イタリアからボナパルト麾下イタリア軍が進軍し、最終的にウィーンを挟み撃ちにして陥落させる、という計画でした。
オーストリアは、オッシュ軍とモロー軍を警戒し、皇帝の弟カール大公率いる歴戦の軍をドイツ方面に展開します。その分、イタリア方面が手薄だったことは事実で だからボナパルトの勝利は単に運が良かったというだけで す。
ドイツ方面軍を一応叩いてから、カール大公はイタリアへ投入されますが、既に手遅れでした。そしてカール大公のいなくなったドイツ方面では、サンブル=エ=ムーズ軍が総司令官をジュールダンからオッシュに替え、また、ドゼらライン・モーゼル軍によるライン河右岸のケール要塞襲撃・籠城を契機に、不死鳥のごとく蘇ります
→ フランス革命戦争7(ブログ)
→ チャットノベル「ダヴー、血まみれの獣、あるいはくそったれの愚か者」 )
お断り
おわかりかと思いますが、私はアンチボナパルニストです。なにやらナポレオン界隈が色めき立っているのに居ても立ってもいられず、しゃしゃり出て参りました。
noteさんでは、以前ブログで書いたオタクな内容を、一般向けにアレンジして連載していきます。
今回の内容は、
ブログ「1797年夏 親友との出会い」
の毒抜きver.です。
なお、一部ではございますが、ライン・モーゼル軍の活躍について、小説がございます。
「1797年夏、親友との出会い」各話リンク
親友との出会い①イタリア軍とドイツ方面軍(本記事)