カール大公の恋7 叶えられなかった約束③
軍務への希望
オーストリア皇帝は、久々に伺候してきた弟、カール大公を、しげしげ眺めた。
……随分やつれたな。
妃のヘンリエッテが亡くなって、そろそろ1年になろうとしている。未だ、弟の心の傷は、癒えていないようだ。
「テシェンに引きこもってばかりいないで、もっと頻繁に、こちらへ顔を出したらどうだ?」
皇帝は言った。
弟カールは、子どものいない伯母夫婦の養子となった。テシェンは、養父母の領土だったものを、カールが継承したものだ。
そのせいか、皇帝のすぐ下のこの弟は、なにかと、長男である皇帝に遠慮していた。
それが、皇帝には歯がゆい。
1年前、妃、ヘンリエッテが亡くなった。ヘンリエッテは、プロテスタントだった。厳格なカトリックであるハプスブルク家が、初めて迎えた、異教徒の配偶者だ。
それを、快く思わない者は多かった。
彼女の死に臨み、カプチーナ礼拝堂への埋葬を反対する声が出た。皇帝は即座に、彼女を受け容れるよう命じた。
「兄上には、感謝しています」
カールは微笑んだ。無理に笑っているようで、かえって、痛々しい。
何を水臭いことを言っているのだと、皇帝は思った。
「お前の長女も、年頃だろう? ウィーンにいた方が、何かと好都合ではないか」
「いいえ。あの子は、14歳になったばかりです。まだまだ、そのようなことは……」
ぶるっと、カールは身震いした。
「もう少し、手元に置いておきたいのです」
「優しい子に育ったな」
慈愛を込めて、皇帝は言った。
「ありがとうございます。今年は、長男のアルブレヒトも、大佐に任命頂き……おかげで、素晴らしい軍務のスタートを切ることができました」
「後は、本人の努力次第だ」
「はい。兄上のお言葉、しかと、息子に伝えます」
アルブレヒトの話になると、カールの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
自慢の息子なのだ。
父と同じ、軍務への道を志している。
「軍務で思い出しました。今日は、兄上に、お願いがあって参ったのです」
「お前が? 珍しいな」
意外に思うと同時に、皇帝は、嬉しかった。
「言ってみよ」
「はい。フランツのことです」
「フランツ?」
思いがけない名前が、弟カールの口からこぼれた。確かに弟は、皇帝の孫のフランツに、軍務の手ほどきなどをしていたが……。
皇帝の孫、ライヒシュタット公フランツは、12歳の時から、軍務を志していた。本来なら、司祭にしたかった。しかし、祖父でありながら同時に育ての父として皇帝は、敢えて本人の意志を尊重した。
フランツは、ナポレオンの息子だ。軍を預けるには、慎重であるべきだということくらい、皇帝も重々承知している。
孫の昇進は、他の皇族に比べ、桁外れに遅かった。たとえば、フランツより6歳年下のカールの息子アルブレヒトを、皇帝は今年大佐に任命したが、フランツの方は、去年やっと大尉にしたばかりだ。しかもこれが、初めての昇進だった。また、皇族男子なら誰にでも与えられる、金羊毛勲章も授けていない。もちろん、実際の軍務にもつけていない。
しかしそれも限界だった。本人の強い希望で実務訓練が始まり、それが終われば、いずれかの連隊に所属させなければならない。
ためらいがちに、カールが口を開く。
「皇帝は、彼を、どこかの駐屯地へ派遣するおつもりだと、聞きました」
「皇族が軍務を始めるのは、プラハからが、定石だな」
カールの顔は、憂いに沈んでいた。
「フランツには、軍務の才能があります。語弊を恐れずに申し上げれば、さすがは、ナポレオンの息子だ。ですが、いえ、だからこそ、彼には、重大な欠陥があります」
「重大な欠陥だと?」
皇帝は眉を顰めた。
カールは、皇帝をまっすぐ見つめ言い放った。
「彼は、フランスとは、戦えない」
「いや」
即座に皇帝は否定した。
孫のことなら、よく知っている。
「フランツは、戦うであろう。あの子は、第二のオイゲン公を目指すと言っている。この国を守るためなら、全世界へ剣を向けるであろう」
オイゲン公は、元フランスの貴族である。オーストリア軍に入り、最終的には、母国フランス軍とも戦った。
「ですが、兄上。フランツは、父親に心酔しております。そこが、オイゲン公と、違うところです」
少し間を開け、だが毅然として、カールは続けた。
「父親に対する批判と反感の中で育ったことが、彼に一層の、ナポレオンに対する親愛と敬意を育んでしまったのです」
皇帝は気色ばんだ。
「あの子に対する教育が、間違っていたというのか?」
「いいえ」
強くカールは否定した。
「他に方法はありませんでした。ただ……子どもの頃から、フランツは、勁い子でした。彼は、フランスの血を、捨てることをしなかった。もう片方の血筋に己を委ねてしまえば、楽に生きられることを知りながら……。融通の効かない、頑固な、そして、誇り高き子です」
「誇りは、王家にとって、何より、大事だ」
「兄上。私は、思うのです。フランツ……この宮廷で、誰より優れた知性を持つ若い世代……そのフランツが、そこまで慕うナポレオンとは、いったい、何者だったのだろう、と」
「ナポレオンはナポレオンだ。ナポレオン以上の、何者でもない」
「ですが、フランツがあれだけ心酔しているのです。案外ナポレオンは、傑出した人物であったのかもしれません」
「何をバカな!」
即座に大声が否定した。
「あれは、世界の調和を乱した、反逆者だ。戦場でしか生きられない愚か者だ。彼の名の下に、何百万もの人間が死んだ。兵士だけではない。皇族、貴族、そして、罪なき民衆も」
皇帝は、立ち上がった。怒りのまま立ち去ろうとして、ようやくのところで、踏みとどまった。
「彼は、戦地でしか生きられない男でした」
カールがつぶやくと、皇帝は、目を瞋らせた。
「あの男は、まともではない。アウステルリッツの戦いの後、焼け落ちた風車の下で、儂は、痛感した。あれは、まさしく、『陋屋から出てきた男』よ」
どさりと王座に腰を下ろす。
「彼は、大変な人たらしでした」
カールがつぶやく。
……「今日は話せてよかった。やはり貴殿は素晴らしい。まさに、有徳の男だな」
1805年、シェーンブルン宮殿での、ナポレオンとの会見が、カールの脳裏に甦った。
ナポレオンは、魅力的な男だった。軍人としても、申し分のない、活力に満ちていた。
……しかし、あのままナポレオンの掌中に陥っていたら。
……自分は、臣下に乗せられて、皇帝を裏切っていたかもしれない。
少なくとも、その隙を、カールは、兄の皇帝に不満を抱く者たちに、晒してしまったろう。
「時を経て、その引力が、自分の息子を籠絡するとは。ナポレオンも、さぞや本望でしょう。ですが、それが、フランツを苦しめることになっている」
「フランツが、あの男の血を引いているのだということは、正直、耐え難い。だが、あの子は、儂の孫だ。オーストリアの公爵なのだ」
「彼は、大公ではありません」
「それは……」
苦しそうに、皇帝は唸った。
フランツは、皇帝の娘マリー・ルイーゼを介して、ハプスブルク家と繋がっている。女系のプリンスは、大公を名乗ることはできない。
さらにカールは、膝を詰めた。
「フランツは、独り立ちを望んでいます。ですから、軍務における彼の指導には、細心の注意を払う必要があります。本来なら、私自らが、彼を教え導きたいくらいだ。でも、私はすでに、軍を退いてしまった……」
それが、自分への気遣いだということくらい、兄の皇帝は見抜いていた。
弟カールが、自分より、遥かに優れた能力を持っていることも。
1809年、アスペルンでカールは、ナポレオンの不敗神話に傷をつけた。その後、ヴァグラムでの負けを経て、ツナイム(現チェコ、ズデーテン地方)で彼は、ナポレオンのフランス軍と休戦協定を結んだ。
あのまま戦闘を続けていれば、オーストリアの傷は広がるばかりだったろう。今に思えば、カールの判断は正しかったとわかる。
しかし、これは、許可を得ずにカールが単独で結んだ協定だった。現場の判断とは、そうしたものだ。迅速さが鍵となる。わかってはいても皇帝は、カールを総司令官から外さざるを得なかった。カールは軍を退き、それどころか、数年後、全ての役職からも身を引いてしまった。
兄である自分への完全な忠誠を示すために、有能な弟カールは、自ら退いた。
あれは、弟から自分への、稀有な真心の発露だったと皇帝は思う。ツナイムの戦場には、ナポレオンもいた。休戦協定を手土産に、麾下の軍を率い、弟はそのままナポレオンの懐に飛び込むことだってできたのだ。
「兄上」
カールは、膝を乗り出した。
「フランツの最初の赴任地として、ブルノ(現在のチェコ、モラヴィア辺り)は、いかがでしょう?」
「ブルノ?」
皇帝が首を傾げた。
「ええ。ナッサウ公の連隊が駐屯しております。そこの歩兵隊を、フランツに任せてみたらいかがでしょう」
「ナッサウ公……ああ!」
皇帝の顔に、理解の色が浮かんだ。
カールは頷いた。
「そうです。ナッサウ公……亡くなったヘンリエッテの兄です」
「……なるほど」
「彼を通して、我々は、フランツの様子を知ることができます。義理の兄の連隊とあらば、私も、ちょくちょく、フランツのところへ行くことができる」
「フランツは、二人の上官を得るわけだな。ナッサウ公と、カール。お前と」
「はい。フランツには、迷惑な話でしょうけど」
くすりと、カールは笑った。
「……ありがとう、カール」
ぼそりと、皇帝は言った。
カールは、目を瞬いた。
「礼なんて。兄上。私はそんなつもりは……」
「いや。フランツの子ども時代は、オーストリアとフランス、両国の犠牲になった。ナポレオンとオーストリア皇女の結婚は、あってはならないことだったのだ」
「兄上、これだけは」
カールが言った。強い口調だった。
「あの子は、生まれるべくして生まれた子です」
皇帝は、大きく頷いた。
「そうだ。だからこれからフランツには、自分の人生を取り戻してほしいのだ。カール。お前が、あの子の側についていてくれて、儂は嬉しい」
「私だけではありません。ヨーハンだって、ゾフィーだって、ま、ちょっと頼りないけど、フランツ・カールだって……フェルディナントも、フランツのことは、大好きでしょう?」
「フランツのことなら、皇妃も自分の息子のように気にかけている。いや、偏愛と言っていいくらいだ。お前の娘もそうだろう?」
「アンナはダメです」
きっぱりと、カールは答えた。
皇帝は笑った。
「儂はな、カール。いずれあの子は、フランスから迎えられると、考えている」
カールは息を飲んだ。
「7月革命により、正統なるブルボン家は、その座を追われた。王は、国家などではなかった。また、王位も、神から授けられたものではなかった」
「兄上……」
「それがどういう形かは、わからない。神ならぬ身に、先のことは、見通せない。未来は、若い者たちが動かしていくものだ。フランツは己の道を行くだろう。あの子にはそれだけの力がある。そして、然るべき時の流れと必然が、彼をフランスの王座へと導くと、儂は信じている」
語調を和らげ、続けた。
「大丈夫だ。いつフランスから迎えられても恥ずかしくないよう、金の用意を始めたところだ」
カールは、危惧を覚えた。
彼のところへは、諸外国のボナパルニストから、しきりと、ナポレオンの息子を解放せよとの、手紙が届いている。その中にはナポレオンの兄弟からの手紙も混じっていた。
その全てを、カールは兄に見せ、宰相メッテルニヒに渡していた。
しかしフランツには、なにひとつ、知らされることはなかった。
伯父達の手紙さえ、彼には届けられていない。
大公カールは、長いこと、宰相の監視下にあった。同じ扱いを、今、フランツも受けている。いや、もっと悪い。
鷲の子は、檻に閉じ込められているのだ。皇帝の一声で、この檻は、簡単に開くものだろうか。(※1)
「フランツをウィーンへ閉じ込めているのは、他ならぬそのメッテルニヒなのではありませんか?」
畢生の大事業、ウィーン体制を守るべく、メッテルニヒはフランスの共和派や帝政派の復活を、ことのほか警戒している。
皇帝は眉を顰めた。
「何を言うのだ。フランツは、このウィーンに監禁されているわけではない。逆だ。メッテルニヒの政策の元、厳重に保護されているのだ。いいか、カール。ナポレオンの息子を亡き者にしたい者は大勢いる。その筆頭が、フランス王室だ」
ブルボン復古王朝の白色テロは有名だった。ナポレオンの元帥と側近が惨殺された。また別の元帥がルイ18世により死刑に処された。他にも、250人以上が禁固刑になった。
フランスでは、ブルボン家の王よりナポレオンの息子の方が遥かに人気がある。その点でも、ブルボン家はフランツを警戒していた。
兄の言葉に、カールは頷いた。
現にカールの元にも、ブルボン家の「ナポレオン2世」暗殺計画に関する密告状が、かなりの頻度で届けられている。
皇帝は続けた。
「ブルボン家の中でも特に容赦がないのが、我々の従妹、マリー・テレーズだ」
マリー・テレーズ。
突然出てきたその名に、カールの心が揺れた。
だが、皇帝は気がつかない。
「マリー・テレーズは、ナポレオンをひどく嫌っている。ナポレオンの元帥だったというだけで、妻の哀願にも耳を傾けず、ネイ元帥を処刑させたというではないか」
マリー・テレーズは、革命政府に両親と弟、叔母を殺されている。彼女は、かつてのフランスの帝王を革命の継承者、そして、王位簒奪者と見做していた。
「もちろん儂はそんな風には思っていない。お前もだろう、カール」
「もちろんですとも」
力強くカールは頷いた。地位や名誉のある女性を不当に貶めるのは、どこの国でもよくあることだ。まして彼女には敵が多い。
満足げに皇帝は頷いた。
「オーストリアとフランスの狭間で苦しむのは、マリー・テレーズもフランツも同じだ。7月革命でブルボン王朝は倒され、従妹は再びフランスを追われてしまった。だが、フランツの未来はこれからなのだ」
「フランツに流れるハプスブルクの血を通じて、フランスを手に入れるおつもりなんですね?」
カールの声には、苦い響きがあった。
……彼女は、フランスを選んだ。フランス……アングレーム公を。
……自分は、マリー・テレーズを妻に迎えることができなかった……。
皇帝は笑った。
「まさか。そこまでは考えていない」
すぐに真顔になった。
「ただ、フランスは大国だ。最近のプロイセンの台頭も、気にかかる。北にはロシアも控えている。フランスがオーストリアの味方についてくれたら、と思っているよ。かの国に、わしの孫がいてくれたら心強い」
……そううまくいくだろうか。
わけの分からぬ不安がカールの胸を過った。
時の流れと必然
……秋になったら、お前をプラハかブルノへやろう。希望通り、そこで、軍人としての第一歩を踏み出すのだ。
皇帝は孫にこう、約束していた。
だが、翌年春にようやく決まった彼の赴任地はアルザー通りだった。アルザー通りは、ホーフブルクから通える距離だ。フランツはまたしても、ウィーンから出ることが許されなかった。
……新年の休暇に、ライヒシュタット公の馬車に乗せてもらう。
幼いマリアの願いも、また、叶えられることはなかった。
永久に。
1832年7月。一度としてその翼を広げることなく、鷲の子は死んだ。21歳。結核だったといわれている。
※1
ナポレオンの紋章に取り入れられていることから、鷲は、ナポレオンを表す
※2
当時、マリー・テレーズの叔父ルイ18世は、ロシアのミタウに亡命していた。ウィーンを出たマリア・テレーズは、アングレーム公と結婚する前に、まずはこの叔父の元へ身を寄せた