見出し画像

というか家出/血便、当たり屋

おはようございます!3回くらい書き間違えた。書き間違えたも2回書き間違えた。パソコンで書くのは久しぶり、手は少し冷たいがどちらかといえば乾燥の方がスムーズな運指を妨げている感じがする。10:02。今日は午前いっぱい使ってゆっくり書こう、と直感的に思った。思いついた。ツイートもいくつか先にしたが、今日は冒頭に貼り付けようとはしなかった。雨だから加湿器に水は補充しないまま、そう書いてみると途端に音のない世界に誘われたような気分になるが、それは妹の嵐のような身支度が嘘みたいに静まり返っているからでもある。

作戦変更!午前いっぱい使って書くなんてそんなめんどくさいことはしない、サクッといま書ける分書く、書きたい分だけ。これは仕事だからだ、仕事はダラダラやらない、チャチャっと片付ける。とりあえず足を前に運ぶ、楽しもうとかそんなこと考えない、直線的に終わりに向かって駆けていく。

初めて写真をパソコンからあげた。エアドロップでマックブックへ送ってから慣れない手つきで画像データを探す、これがまたいい。探している最中はそうは思わなかったのだが、そうしようと決めた直後と画像を無事上げ終わったあとはそう思った。今は晴れやかな気分だ。思ったより美しい写真に仕上がっていなくて戸惑ったが、可愛いと見ようと思えば余裕を持ってそうみることができるランチプレート。僕は本当に、昨日もこの言葉を使ったが「切り貼り」が好きなのだと思う。作った昼飯や出かけた先の雲、毎日の原稿、思いつきで始まる音声収録、すべてこのサイト上にあげている。ツイートや身近な人への企画書としてのLINEのメッセージにも分散してはいるからほとんど、といった方がよいかもしれないと書こうとして、最近後者のウエイトを徐々に増やしていこうと心がけているのだと思い出した。理由はひとつになってはいけない、それだけになっては窮屈だからで、動作をみてもその原動力をみてもなにか疑念を抱いたことなどなかったのだが、いまこうしてなんの気なしにパソコンから写真を上げてみたら、俺はここを一つではない場所、それだけにならない場所にしようとしているのかもしれないと思いついた。いや普通にそうなのだが、いまあなたが思い浮かべていると僕が勝手に仮定しているその当たり前というのは読み手としてここを眺めた場合のものであって、書いている分にはまったく正反対といってもよい向きの運動がここに至るまでには起こっていることになる。つまり目で見た、いったん写真におさめて凝視の時間をを留保した、とりあえず形に残しておく、ここはなにがなんでも目で見ておく、心が何かに触れて、あるいは対象物との間になんらかの「心」が巻き起こる、そういったものをすべてわざわざ一箇所に閉じ込めているわけだ僕は。それって窮屈なことしてるよな、ゆくゆくはそうではないやり方で、それぞれを適材適所で放流していく必要があるんだろうなと確信していたのだ。しかしどうもそれだけではない、との予感を初めて観測した。書き手からしても楽しい運動とこれを捉えることができるのかもしれない。たとえばつい数日前、といいつつ1週間は前のことかもしれないが、そのときもたしか僕は作った飯の写真だか書いた絵を写真におさめたんだか文中において、それについて少ししゃべって、これではやっていることがまるっきりブログではないか、というようなことを言った。そう考えるとなんだかたまらなく楽しく思えて、楽しく思えてきたような気がする、くらいにぼんやりと浮かび上がった高揚感、それをみてリアルタイムながらに不思議に思った記憶がある。

切って貼って、建てる。自らの国をつくる、そんなつもりでこれを書いていたこともあったが今は違う。いま改めてハンドメイド、いやそんな僕にとってぽっと出の言葉では語り尽くせないくらいの思い入れが小学生のときにコピー用紙でつくったペンギンの問題のカードゲームにはあるし、自由帳にかいたガスパッチョの落書きにはある。母の寝室であり当時の僕の寝室でもあった部屋のドアに僕はそれをのりづけする。あえて壁に貼ったのだ。絵は壁に貼るものだという観念が強く刷り込まれるような環境で育ってきた覚えはないが、それでも僕は一定の間隔を自分で判断して、ドアの寸法をはかり、母の寝室という現場を測量し、己の生み出した紛うことなき商品を、だっておんなじレイアウトでおんなじような絵と字がえがかれたカードが、いくら白黒のものでないとはいえ僕が母に頼み込むのを躊躇うくらいの値がつけられて売られているのだ、これを丁寧に、簡単に剥がれてしまわないように、僕のことだから必要以上にのりしろがベタつかないように配慮して、展示したのだったはずだ。

切り貼り。現に僕はいま、かいた漫画をスクラップブックに貼り付けてから売ろうとしているし、レミちゃんとは今年から、口から出る言葉だけでは語り尽くせないことやものを、これまたスクラップブック的なノートを1週間後に買いに行ってお手製の日記を作ろうとしている。これを始めるにあたって、いや続けるにあたって僕は「写真なんか貼り付けてもいいわけだしね」と忘れずに言おうとしている。スクラップブックなんか使ったことがない、生でそれが活用されているのすらおそらくみたことがない。要は縁がないのだ、と言い切ってしまいそうになる。そういう人生だと啖呵を切ってみたくもなる。

いったん休憩するか、今日はけっこうカロリーを使う。読みやすさに偏らないよう、読みづらさにこだわらないよう気にしつつ、千葉さんの日記の口調を念頭において書いている。こんなことお堅い論調でいうのもあれだから今いうが、3月のテーマは脱-坂口恭平の執筆論になるのだと思う。昨日の夜思った、それが2月の末だから3月はこうだ、こういう月になる、と思ったのだろうか。しゃべるように書く、喋るよりはやく書く、というか坂口さんは書くのが喋るより早いだけなのだとみてもいい。もともと昨日の段階では、もっといえばこの段落にはいってよしきた、いうぞ「アレ」を、とあっためてきた「坂口恭平からの卒業、というか家出」みたいなフレーズをついに文字に起こそうとしていたその瞬間に、うっかり、でもその後数秒なんのひっかかりもなく、「脱」「坂口恭平の〜論」を書いていた。ふたつめは書き起こしてこそいなかったがもう書いたようなものだった。上の句を読まれた時点で飛びつく札は決まっていたのだ。

「というか家出」が象徴するように、なんかどうする家康みたいだな、今日のタイトルこれかな、坂口師範代の織りなす学校、現実宿りのためのシェルター、躁鬱大学およびお金の学校およびエトセトラ、僕のなかにある観念としての「坂口恭平」から脱出する計画を今立てている。計画を立てているだけではつまらないから、といえたら格好いいのだが実情としてははそんなことしたら師範代に怒られるから、計画を立てながらも手を動かす、練習中もある一角を急に切り取って作品と呼ぶ、いや作品にする、というか全部本番のつもりでかく、原稿としての計画立案、オーダーメイドのシェルター建立、読み方けんりゅうだと思ってた、読み方がけんりゅうだったらこれもう詩やんラップやんとか今頃もうちょっと調子に乗っているはずで、そうなりたかった、そろそろこの一文の本筋に戻ろうとしたがそのまま句点を打ってしまっても問題なさそうだ。

というか家出をひとまずタイトルの欄に打ち込んでみる。どうする家康にハッシュタグをつける予定。このへんの人に見てもらうのが一番美味しいから。どうする家康が好きだからこそ腹が立つような文言をいち部首いちづくりたりとも書いていない。いち部首はともかくいちづくりは誰も書いたことがないだろうな。わざわざがすぎる。つくりってつくりって読むからつくりなわけで、という類のつくりじゃないですかここでのつくりって。お腹の調子が崩れてきた。あっくんが1時間前に血便、とだけつぶやいていた。スタイリッシュ。彼はいまここで、その一語を最も言って欲しくなかったんじゃないかと思えるようなそれをいとも簡単にひねり出す。以前彼が車に乗っていたんだったか歩いていたんだかしていたときに、お年寄りだかなんだかわからない人にぶつけられて入院したんだかかすり傷で済んだんだかしたことがあったのだが、しばらくして口座に治療費だか慰謝料だかが彼の口座に振り込まれている写真とともに、「当たり屋」とだけつぶやいていた。最悪だ、と声を出して笑ってしまった。会って口頭で会話している時はそんなことないんだけど、もしくは気にならないんだけど、彼はワンフレーズのキレが良いんだよね。まあその前段階、言葉選びのフェーズが凄み本丸であるようで、その後の「それいうんや」の制御装置の外し方に秀でているのだと思う、もしくはうまいところに設定されている。ずっとあいつは間に立つのがうまかったな。なんか、あっくんじゃなかったら嫌なやつの特徴だとまっさきに捉えてしまう特徴を彼はいくつももっているのに、あいつは最高だ。なんなら誰から見ても「すげえいいやつ」のポジションに収まっているように見えるからはっきり言って気味が悪い。すげえんだな本当に、まだまだなんでそうなのか答えは出ないけど、無理矢理彼の何がすげえのか言い切れるところだけ言い切らせてもらうと、さすがは節約仙人だよ。やっぱ違うよ。もちろん俺の都合のいい凄さをひっぱりだしてこじつけてるんだけど、結果的に、あいつが他の25歳とはひとあじもふたあじも違うという俺の絶対的な見解を強めているだけだからなにも差支えはないというか、要するにこの論理を用いて俺が偉くなろうとしているわけでも彼を偉く見せようとしているわけでもないから、どんだけどう褒めてもいいってことなのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?