中将 大木繁 (10) 1945年8月10日       『日本人引揚に関する発令書』

終戦間際の動静 8月10日 午前

以下は「日本憲兵正史」からの抜粋

8月10日 

新京の「関東憲兵隊・司令部」と、「通化憲兵隊」を除いて、
全満州の各憲兵隊は、関東軍の各地区の軍司令部に組み込まれた。

ちなみに「憲兵隊」は「軍隊」ではない。
満州国に駐屯している軍隊は「関東軍」
満州国に駐屯している憲兵隊は「関東憲兵隊」
「憲兵隊」には「軍」の文字がない。

憲兵隊は、あくまでも独立した組織だった。
しかし10日をもって、憲兵隊は関東軍の配下となった。
その結果、その後 戦禍が広がる中、独自の判断がとれなくなった。

10日午前10時頃「新京憲兵隊」から「大木中将の下・関東憲兵司令部に以下の報告が入った。

「軍令が出た。ソ連侵攻にともない、関東軍・司令部は、軍の司令部に関係する家族を新京から日本へ帰国させる。そのため10日の正午までに新京駅に集合させる。現在 司令部関係の家族が新京駅に集ままりつつある」

「関東憲兵隊・司令部」の「河村愛三」総務部長は、副官の「中村久太郎」憲兵大尉に、事実確認をさせた。

「関東軍・司令部」の建物は、道路を挟んで、「関東憲兵隊・司令部」の建物の真向かいにあった。そして、この二つの建物は「地下道」でつながっていた。

「中村久太郎」は、この「地下道」をとおって「関東軍・司令部・第四課」へ向かった。
「ソ連侵攻」の報に触れた「第四課」は、「最後の晩餐」よろしく酔っ払い三昧。「中村憲兵大尉」が聞いても、まともな返事が返ってこなかった。
そこで「中村憲兵大尉」が「第四課」を離れると、司令部内で出張から戻ったばかりの「関東軍参謀・山口中佐」と鉢合わせした。

「中村憲兵大尉」は「山口中佐」に頼んで「関東軍・司令部」に「日本人引揚」の発令の真偽について、電話で確認してもらった。
その結果、「日本人引揚」の発令は正しく、この発令を出した部署は「第四課」だと判明した。

「日本人引揚」に関する「発令書」が20部残っていたので
「山口中佐」が「中村憲兵大尉」に
「憲兵の家族も、この引揚命令に従って行動するように、全員に伝えてくれ」と言い残した。
「中村憲兵大尉」が「関東憲兵隊・司令部」に戻ったのは、
10日の午前11:30頃であった。

尚 地下道の存在については、
「関東軍の歴史-早稲田大学リポジトリ」にも同様の記載あり

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