見出し画像

『バッドバイ』 父と呼べなくなった父のこと①

「これは見捨てるんじゃなくて、助けるための制度なんですよ」
役場の保護課の職員さんからそう言われた。
成年後見人制度。僕はきっとこの制度を利用することになるだろうと思っている。

ひでさと君、とうさん、おとうさん、パパ。

今では彼をなんと呼べばいいのか、わからなくなったまま、かつて最愛の人だった父親との別れが近づいている。

「グッドバイ」

そう言って別れたいけど、今は「グッド」なんて感情はどこにもないなあ。気分は「バッド」。

「バッドバイ」

「バッド」でも笑いながら言えるといいけど。

父と小2くらいの僕

2025年1月31日、彼は今いる精神病院のアルコール病棟から、特別養護施設にうつることになる。本人からの連絡はない。保護課の職員さんから教えてもらった。どうしてこんなことになったのか? そう思うことは今までにも何度もあった。

「Point of no return」

『バック・トゥ・ザ・フューチャー3』でドクが「手抜きだ」と言いながら驚く完成度のジオラマを使って、未来に帰る方法をマーティーに説明する時の、この台詞を思い出す。
「ここからは引き返せないよ」
そんな地点が僕と父との関係の中にもあったはずなのだ。
マーティーはデロリアンに乗って、良かった頃の世界に戻れたけれど、現実にはそれはできないわけで。僕は蒸気機関車と運命を供に、谷底へ真っ逆さま、そんな状況なのだ。

『BACK TO THE FUTURE 3』

僕が現在進行形でもあるこの話を書いていこうと思ったのは、誰かの役に立ちたいとか、書くことで思いを昇華させたいとか、そういう事ではなく。
書くことで、前に進んで、あの頃の気持ち、彼を愛せるようになればという気持ちが大きい。

前に進みながら、昔に戻る。

『BUCK TO THE FUTURE』ならぬ『GO TO THE PAST』なのだけど、まあニュアンスは近いわけで。まだ彼が生きているうちに、少しでもこういう気持ちが残っているうちに書こうと思ったわけです。これから、一番古い記憶から初めて、今の地点までたどり着けるかわからないけど、とにかく旅を始めようと思う。Travelling without moving、僕はどこまで行けるだろうか。

一番古い記憶。
何歳だろう、たぶん3、4歳。
宮崎の県営住宅。
押し入れに飾られた『宇宙戦艦ヤマト』のプラモデル。
ドイツ人の客、ビクターさん。誰やねん、いまだに謎の人。
父が飲み残した、梅干しを入れたお茶。
母のお供をした自動車教習所。
現代っ子こどもセンターという、お絵かき教室。現代っ子こども、ダブルな子ども。
そこで褒められたクジラ同士がキスする絵。
父が小松台という新興住宅地に建てた平屋の一軒家。
父と母の不穏な空気。
新しい家、綺麗な家で家族団らんをした記憶はない。玄関脇にある客間兼父の書斎。そこの大きなガラス窓の仕上がりが父の要望と違ったらしく、その文句を言っていた。
唯一のリビングでの記憶、父と母から聞かれた、
「パパとお母さん、どっちが好き?」
そう、何故か僕は父をパパと呼び、母をお母さんと呼んでいた。これも未だに何故かわからない。
「お母さん」
僕はそう答えた。「そんな質問するなよ!」と今ならブチキレるだろう。
母は僕の奥さんに僕のことを「キレ気味の息子」と言っているので、間違いない。今ならキレる。でも当時は無邪気に答えたんだろう。それがどういうことになるかなんて、小学校1年生の僕にはわかるはずもない。この時の母の反応は全く覚えていない。でも父の顔は覚えている。
笑っておどけていた、僕はそれを見て笑った。その頃の父は僕にとって『ひょうきんで優しいパパ』だった。あの時の父の顔、気持ちを考えると、いまでもたまらない気持ちになる。

結果、僕は母に引き取られて、天理市に引っ越した。母の一族は熱心な天理教の信者だからだ。
ちなみに僕は立派な宗教嫌いに育った(無神論者ではない)。
その頃の経緯、どうやって天理に辿り着いたのか、父とどうやって別れたのか。
本当に全く記憶にない。そもそも父と母の不和の原因も離婚の経緯も、全然知らない。
父からも母からも、別々に断片的な話を聞いていてはいるが、それが事実かわからないし、僕はどちらの味方でもない。
そんなこんなで、小学校1年生、宮崎弁の天理教のことも何も知らないガキが、天理小学校に通い始め、天理教の宿舎に住むことになった。
その頃の記憶も、また酷く曖昧だ。
宿舎のエントランスで、大量のキン消しとレゴで遊んだこと。
毎晩かかる消灯の曲が怖くてイヤだったこと。
共同の風呂場で宿舎に住む大学生に遊んでもらったこと。
宿舎にある椅子で左手親指の第二関節の内側に今でも残るキズを作ったこと。
天理教の総本山みたいなとこの脇のたこ焼きの屋台。
松の木にとまっているのを見つけたタガメ。
真っ白な玉石をもらったこと。
自転車で僕を迎えに来る母。

そして、次の記憶では、もう僕は父が運転する日産キャラバンの助手席に乗っている。
宮崎郡清武町(今は宮崎市)。父の実家。
庭で大好きなじいちゃんとばあちゃん、従兄弟の姉ちゃんたちが手を振って出迎えてくれた、ような気がする。このシーンが現実だったかは、今でも確信が持てない。とにかく僕はどういう経緯か知らないが、父に奪還され再び宮崎に戻った。

記憶はないけど激動だったに違いない1年を経て、僕は小2になっていた。

じいちゃんとかおばちゃんとか

いいなと思ったら応援しよう!