師匠の教え
「駄目だこりゃ」
私の隣で、師匠はこう呟いた。
師匠はいつも、あの涼しい風が注ぎ込む道場で、
私に "綺麗" の何たるかを説いてくれる。
道場の空気は、澄み切っていて心地よいが、
少し緊張する。そんな場所で、いつも正座して師匠の教えにただ耳を傾けている。
「駄目だこりゃ」
これは今、私の目の前で話している人が
何となしに言った一言に対して、
師匠が呟いた一言だった。
そう、目の前で何となしに話しているこの人、
"綺麗" について話していたのだ。
"綺麗" について、あることをサラリと言ってのけた。
師匠はその道のプロで、己の "綺麗" を極め続けている人だ。そんな師匠にとって、いささか耳障りな発言があったのだ。
その発言、確かに私にとってもどこか違和感を感じるものだった。そして私は、あることを思い出していた。
ある夏の日、ピンポーンと呼び鈴が鳴り
扉を開ければこの人が門前に来ていたのだ。
何用か聞こうとする前に、
「はい、どうぞ」
そう言って、その人が笑顔で渡してくれたのは、
一通の手紙だった。
寂しげな便箋には、こう書かれていた。
「あなたは、汚い。」
私がそれを受け取ったのを確認すると、
満足気に帰っていった。
なぜ、わざわざ届けに来たのだろう。
それはまさに、不幸の手紙そのものだった。
小花をあしらった便箋も、
そんな言葉をしたためられては生気を失う..
そう感じる可哀想な便箋になってしまっていた。
そんな記憶を辿っていた私に、
師匠は言った。
「悪趣味の極みだな。
お前を "汚い" と言うことで、自分こそが "綺麗" だと
認識する。だから、わざわざそうやって言いに来た。
言いに来る必要があったんだ。
そういうことを生業としているから。」
何だか虚しく感じた私は、師匠に聞いた。
「師匠は先程、『駄目だこりゃ』と言いました。
口からつい溢れ出てしまったと言う方が正しいかもしれませんが..
どうしてあの人には聞こえてなのですか?
どうやら、あの人には聞こえていないように感じるのですが...。」
「私のは、ただの独り言だよ。
門下生でもない者に、説く話はない。
もしかしたら、中には聞こえてしまう人も
いるかも知れない。
あの人は、やはりそうではなかっただけだ。
あの人は結局、何も見てはいないのだよ。」
私は思った。
師匠は、この独り言を私に聞かせたのだ。
あの人に何かを言う気なんてない。
あれでは駄目。なぜ駄目か分かるか。
あの人は "綺麗" について口にしたけど、
一体何を見ていると思う?
そう、私に問うたのだ。
私は師匠の一門に属している。
この場所から聞く誰かの "綺麗" は、
自分の知ってるそれとはあまりに差があった。
「あっちに行ってはいけないよ。
まだ道場すら構えていない、あの不幸の手紙一門に、お前がなりたいというなら話は別だがね。
あぁお前が入れば、あの人も一門を語れるかも知れないな。」
師匠はそう、笑いながら言った。
「いいか、お前が感じた "差" というものは、
上下の差ではない。どこかの一門に属す属さない
の話をしているのでもない。
ただ、"人としての差" なのだよ。
皆違うということを忘れるな。
一緒はない。一緒にはなれない。
一緒になんてなろうとした瞬間、
お前ではなくなってしまうのだよ。
そんな汚いことはないんだよ。」
私はその日、帰ってから道場の雑巾がけをした。
朝晩の雑巾がけを、師匠から言い付かっているからだ。
この道場にはやはり、
とても心地よい風が注ぎ込んでくる。
縁側に見える緑が青々として綺麗だった。
この道場の床板の渋い焦茶色も、
あの緑や心地よい風にぴったりな気がした。
"差" とは何だろう。
そう考えながら、ただひたすら掃除をしていた。
誰かに何かしたためる暇なんてないよな。
そんなことに時間を使ってしまえば、
この大切な日課を一体誰がすると言うのだろう。
磨いている床板が、益々渋みを増していく気がして、
私はただ嬉しかった。
私はただ、この雑巾がけが好きなのだ。