イタリアの詩人モンターレと柿本人麻呂の詩の交換(知り合う前のチャットメールより)
一番最新の?進行中の男性との交流についてちょっと書いてみたいと思います。
今の時代、ソーシャル上の友達から始まってチャットのやり取りに繋がり、会う、という流れで異性(に限りませんが恋愛対象相手)と知り合うという例は割とあると思います。
私も、多くはありませんが、2人そうやって交際に繋がった男性がいます。
関係が始まってまもない彼はそのうちの一人。
私は教師業なので夏休みは一般の仕事の人よりも長く、最近帰国していて時間もあり、彼とも離れている、ということで、これまでのチャットを、どんなきっかけだったか覚えていませんが、見直してみました。
チャットの見直しって楽しいですよね。私だけでしょうか。
何度も見直して時間を(無駄に)使っていることがあります。
多分去年の末ごろ、facebookで彼が書いていたことに私が共感を覚え彼のポストにコメントしたり、私の以前の仕事が彼の仕事の領域に近く、関心を示してくれたり、と、個人的なチャット交換が始まりました。
最初は彼の方から週末にメッセージくれたと思います。
(確認したら1月2日でした。つまりクリスマス休暇でお互いに余裕があった時期)
彼からの最初のメールの内容は、突然、モンターレの詩を訳したことある?でした。
*エウジェーニオ・モンターレ Eugenio Montale、イタリアの詩人、ノーベル文学賞受賞者、1896〜1981
9時間後の私の返事は、モンターレは少し読んだだけ、イタリアの詩を日本にも紹介できたらいいなとは思ってる、特にレオパルディ(*ジャコモ・レオパルディ Giacomo Leopardi、イタリアの詩人、1798〜1837)。
そこからは夜でゆったりした気持ちだったので、やり取り開始。
彼は一番好きな詩なんだ。ということで次の詩を送ってくれました。
Ho sceso, dandoti il braccio, almeno un milione di scale
e ora che non ci sei è il vuoto ad ogni gradino.
Anche così è stato breve il nostro lungo viaggio.
Il mio dura tuttora, né più mi occorrono
le coincidenze, le prenotazioni,
le trappole, gli scorni di chi crede
che la realtà sia quella che si vede.
Ho sceso milioni di scale dandoti il braccio
non già perché con quattr'occhi forse si vede di più.
Con te le ho scese perché sapevo che di noi due
le sole vere pupille, sebbene tanto offuscate,
erano le tue.
以下、簡単な私訳
僕は君の腕をとって少なくとも100万階分の階段を下った。
君がいない今、階段の一段一段が虚しい。
僕達の長い旅は、それでもあっけなかった。
僕の旅はこれからも続く、でももう必要ない。
偶然も、予約も、
作り話も、
真実が、目に見えるものだと信じる人の落胆も。
僕は君の腕をとって少なくとも100万階分の階段を下った。
でも、四つの目で見るともっとよく物事が見えるからではなくて、
君と下っていたのは、僕達二人のうち、
本当の瞳は、たとえ霞んでいたとしても
君の瞳だけだからなんだ。
モンターレが奥さんに先立たれた翌年に発表された詩です。
モンターレの奥さんはあまり目が見えなかったために、常に腕をとって歩いていたという事実がこの詩につながります。
君は目が見えなかったけれど、常に自分に物事の見方を教えてくれていたのは君なんだよ、というまっすぐな恋愛詩。
私はイタリアの大学でイタリア文学で修士を取ったので、比較文学の講義でモンターレを読んだことはありましたが、モンターレの詩は男性的なゴツゴツしたリズムが特徴的、との印象があり、恋愛に関する詩は知りませんでした。
さて、私も素敵な日本の詩をご披露しようと、最近知った、柿本人麻呂の短歌をイタリア語訳と共に送りました。
人の見て
言(こと)とがめせぬ
夢に我れ
今夜(こよい)至らむ
宿閉(と)すなゆめ
行く道で私を見た人に尋ねられることがないよう 私は今夜夢に伺います。
どうか夢の扉を閉じないでおいてください。
Nessuno potrà
vedermi né chiedermi
nel sogno qualcosa
Verrò da te stanotte
non chiudere la porta al sogno.
とても素敵な短歌ですね。
イタリアの小さな恋愛詩集に掲載されていたのです。
またもや、君が訳したの?と私への評価が高いようでしたが(笑)
あいにく、もちろん私が訳したものではないので、
イタリアで買った恋愛詩集の中で見つけたのだよ、と。
当時は男性が女性の元に夜通う習慣があって、短歌がラブレターとして交換されてたのよ、と時代背景を説明しました。
その時の彼の返しが、今見るとかわいらしくかつ完璧ではないか?と思われる、
Bellissima
Grazie
Lascerò aperta la porta del sogno (+ハートマーク顔emoji)。
とても素敵な詩だ
(シェアしてくれて)ありがとう
夢の扉を開けておくよ(ハート)。
最後の一文が女性慣れしたイタリア人という感じ。
無論、かわいいな、完璧な返しじゃない?という感想は彼に好意を持っている今だからこその印象であって、やり取り当時は、知らない人からそんなこと言われても、と困惑、あるいはイタリア人はよくもまぁ、と軽く呆れてたかと思います。
自分の心情は憶えていませんがそんな感じだったんじゃないかな。
そもそも女性は(私は)直接会ったことのない人に恋心を募らせることはほとんどなく、何度か会って愛着が増すと好きになる、というパターンがほとんど。
一方で男性は、会う前に猛烈にアプローチしてきたのに相手が自分のものになったと認識するや連絡が少なくなる・ロマンチックでなくなるというよくあるパターンからも、会う前に想像逞しく擬似恋愛感情を募らせられるという、そこは男女の違い。
イタリア人であってもほとんどの男性はこのパターン、いつまでも映画の中のようにロマンチックを囁き続けてくれる男性は少数派のように思います。
今になって最初のやり取りでの詩を確認してみたりしたのも、相手が自分にとって特別な存在となった今だからこそ、その人がどんな詩が好きかなんて興味を持った訳で、そうでなければ(やり取り当時の私のように)印象に残らず仕舞いだったでしょう。
そこら辺、女性は(私は)感情が先に立ちかつ軽薄な動物です。
ともかくこのやり取りはなかなか素敵だったな、と今更思い、ちょうど読んでいた本の余白ページに書き留めたりした次第です。
さて、私たちのそのあとのやり取りは、じゃあお休み、いつか君と知り合いたい。私からは(今見るとそっけない)お休み、の一言で終えます。
(私も、くらい書けばよかったのに)
それから日常が始まり、1ヶ月以上経って、イタリアに3日だけ帰ってきてるから会わない?と連絡があって(彼は仕事でヨーロッパ各国を点々としている)会うことになり、また彼がイタリアに戻ってきた夏にニ度会って、いう流れ。
最初に会った時はほんの顔合わせ程度というか、土曜日の公園で短い散歩とオープンバールでの朝ごはんを一緒しただけで彼はすぐに仕事関係の人と会う約束があると行ってしまいました。
あっけなかったし、紳士的でオープンで好印象ではありましたが、その後ずっと彼のことを考えていたわけではなく(一方で彼の方もどうだか分からないし)、
その間私の方には別の男性との交流もあったので、この夏、旅行と帰国の狭間でイタリアに残っていた1週間ちょっとの間に連絡があって、彼の住む町から二度会いにきてくれた、という急展開。
またこれから彼の外国暮らしが続くし、今後については未知数ですが。
この文章の纏め、はないですが、こうした、自分にとって特別な(特別となった)人との言葉のやり取りにも、私は自分への励み、小さな自信、心の交流の充足感をもらって生かされているのだな、と思います。
言葉、特別な人の言葉、はあとから度々思い出しては力をくれるもの。私も言葉を大切に使っていきたいものです。
関わりあった人たちが悲しい時や苦しい時に思い出して嬉しい気持ちがひととき持てるように。