朝陽のプロポーズ:ショートショート
お互いにお互いの心の寂しさは埋められないと知っていたから、朝陽との関係は、実に淡泊だった。
夜、ホテルの近場で落ち合い、特に何かを話すでもなく、部屋に入るや愛撫して行為にいたり、朝は最寄りの駅で、別々のホームへ向かってお別れをする。
心のつながりといえば、そのときに交わすささやかな微笑くらいだった。それは不思議な瞬間だった。彼女の口元が微かな笑みをたたえた瞬間、それは空間の裂け目のようであり、ひずみのようであり、極微なズレ込みさえ許さない、一切合切あるべき所に固定された空間が、まるで精緻な機械がその最も細かな歯車を失うだけで支障を起こすように、その繊細な一撃を被ったために全体が大きく歪んで捻じれてしまったみたいで、覚束ない足場に身が崩れ落ちそうになるのに、歪みうるほどに柔らかくなった空間は、人をダメにするソファのように心地良かった。
この一瞬の間に立ち現れて消え去る時間は、たしかに儚くはあるけども、永くは留まっていないけれども、どこからどこかへと循環していて、たまたま偶然、僕らがその経路のうちの一点に紛れ込んだしまった。時間がこの一点を過ぎゆく瞬間は、確かめようもない永遠の愛をどうにか人に空想させようと躍起になっているドラマ劇よりもずっと心が潤うようだった。
一応、空想を模倣して恋らしい恋を試みたことはある。朝になればラインでおはようと挨拶を交え、夜になればお疲れ様と互いを労った。休日には手をつないで街中をあてもなく歩きまわったり、日帰りの温泉に出かけてみたりもした。
しかし満たされた、という感覚には至らなかった。彼女も無理をしているようだったし、僕もまた無理に演じているようだった。
幸い、朝陽も僕も、それなりの恋愛経験をこれまでに積んできた。同じことの繰り返しだった。だから判明したのだ。問題は、相手にあるのではない、と。もうアラサーを過ぎたなら、そのくらいのことは気づいてしかるべきだった。
「僕と一緒にいるのが不快じゃないなら」
「私も同じこと思ってた」と彼女は笑って言った。
「私と一緒にいて、不快じゃないなら、別に終わらせる必要はないよね」
僕も笑って言った。
「僕に決定権はないから。君の自由だよ」
それからいつしか、ただ体を重ねるだけの関係になった。はたから見れば僕らの関係はセフレ以外のなにものでもなかった。それなのに僕は彼女のために、貯金のすべてをはたいて指輪を買っていた。
ことが終わったあと、特別な感情もなしに僕はがさがさとカバンのなかを漁り、リングケースを取り出した。どこかの店のレシートが挟まっていた。
「よかったら」
ふと明かりが灯されたかのように不意に見せた彼女の笑顔が、目にしみた。開かれたケースからのぞくダイヤの煌めきは、むしろ目に残る光の残像でしかなった。
「ありがとう」
「まさか、君がそんなに笑ってくれるなんて思わなかったよ」
「そう?私、そんなに笑ってる?」
「君がそんな風に笑えるなんて、知らなかったよ」
「いつまで続くだろう」
「大丈夫。ずっと俺のなかに残ってるよ」
「あなたがそんなロマンチックなことを言える人だったなんて、知らなかった」
「最初で最後さ」
そう言って僕は、指輪を掴んで取り出し、彼女の左手の薬指にはめてやった。じゃあお休み、と布団にもぐり、眠りについた。
( ´艸`)🎵🎶🎵<(_ _)>