「広告を観る側になろう! ~広告観察から学ぶ、悪くない広告のつくり方~」 実施レポート
こんにちは。セプテーニグループnote編集部です。
デジタルマーケティング事業を展開するSepteni Japan株式会社では、世の中により良い広告を届けることを目指す社内プロジェクト「SEPTENI GOOD」と、社会課題と企業の価値を適切に接続し「よい成長」を目指すブランドアクションを提案する事業プロジェクト「Good Growth Creation」が活動しています。
先日「SEPTENI GOOD」と「Good Growth Creation」の共催で、「ジェンダー目線の広告観察」の著者 小林美香さんをお招きし、Septeni Japanの飯島夢さんナビゲートのもとウェビナー「広告を観る側になろう! ~広告観察から学ぶ、悪くない広告のつくり方~」を実施しました。
今回のnoteでは、そのウェビナーの様子をお届けいたします。ぜひご覧ください。
広告を「観る」ということ
最初の話題は「観察する・視点を意識する」ことについてでした。小林さんは展覧会の企画や書籍・カタログの編集に関わってきたご経験から、ご自身がものを見るときに「文脈」を意識されているとのこと。また作家・公民権運動家ジェイムズ・ボールドウィン氏の発言「教育の目的とは、人の中に自分で世界を見る能力を作り出し、自分で決断できるようにすること」「直面したからといって、すべてを変えられるわけではない。だが、直面しなければ何ひとつ変えられない」を引用し、何かを考えたい、行動したい時の能動的な「観る」は、受動的な「見る」とは大きく違うとお話しいただきました。
また経営学者ピーター・ドラッカーの発言「コミュニケーションにおいて最も重要なのは、語られていないことを聞くこと」「コミュニケーションは受け手が決める」という発言もご紹介いただきました。私たちは情報を得る時に表面的に表されているものだけを受け取っているわけではなく、さまざまに組み合わさった要素全体で情報を理解している。これが広告を「観る」ことにおいても非常に関連が高いとコメントをいただきました。
ジェンダーと表現
続いてテーマは「ジェンダーと表現」に移ります。かつてジェンダーは男女の性別と認識されることが大半でした。ただこれはジェンダー・バイナリー(性別二元論)の考え方であり、昨今はノンバイナリー(自身の性自認・性表現に「男性」「女性」といった枠組みをあてはめようとしない性自認)など、それだけではないジェンダーのあり方についての理解が広がりつつあります。一方で、学校や職場、公共空間の中では、ジェンダー・バイナリーの考え方をもとにルールが表現されていることも多い。その例としてトイレのピクトグラムが紹介されました。
その他オールジェンダートイレのピクトグラム表現や、海外で掲示されている文字だけや写真つきのトイレ案内を紹介いただいた後に「他の地域や時代を参照することで、自分が今いる状況を相対化して考えることができる。トイレに関わるルールは普遍的なものかもしれないが、マイナーな違いや法規制が変わることでピクトグラムの表現も変わるかもしれない。どう変化してきたかという過程も含めて観察すること、前提として自分が今いる状況以外も理解しておくことはとても大事。広告のようなコミュニケーションの仕事に関わるにあたっては特に重要だと思います。」とコメントをいただきました。
「私たちは広告に限らず、体に対する価値観、容姿・仕草、そういったものをメディアでみるものから学び取っていると言えます。ある意味メディアは、ジェンダーの価値観を男女を巡る固定観念として教え込む、方向づける強い影響力を持っていると言っていいでしょう」と前置きした上で、小林さんは実際にこれまで「観て」きた広告のうちいくつかを紹介してくださいました。
言葉だけではない表現
そのひとつがアルコール飲料の広告です。同じキャッチコピーを使用した、同じ商品の2種の広告を並べて比較すると、男性タレントが起用された広告はキャッチコピーがゴシック体で表現されていました。一方で女性タレントが起用されたものは手書き風の文字です。ゴシック体は男性らしい力強い印象を、細い文字は軽やかな印象をみる者にもたらします。文言が何と言っているかだけでなく、タイポグラフィーが作る表現も大きい、これは比較するから見えることだ、と小林さんはお話しされました。
また、写真と言葉の組み合わせの例として某映画のポスターもご紹介いただきました。同じ映画のポスターであっても、日本・イギリス・アメリカ・フランスのポスターを並べてみると違いがよくわかります。スチール写真は共通ですが、構成の仕方、コントラストの付け方、画像加工・配置の仕方などに違いがあります。それぞれの地域で好意的に受け取られるように、受け手が何を好むかでデザインが設定されていると小林さんは解説してくださいました。
映画は選挙権を獲得するために戦った女性たちを描いたものです。日本のポスターは全体的に華やかな印象が強いところ、イギリス版は女性たちの意思の強さ、力強さが全面に表れていました。そしてアメリカ版は反逆者・ならず者の雰囲気が漂い、フランス版は大河ドラマのようなテイストです。通常私たちは、何かの情報を受け取る場合、最初の一つしか見ないことが多いが、このように違う地域はどうなんだという見方をするのも視野を広げる一つの方法だと小林さんからコメントをいただきました。
▲48分40秒あたりからポスターが紹介されています
「理想化された男性」とホモソーシャル
女性の表象については萌え絵ポスターなどでネガティブな話題になることが多い一方で、男性の表現には幅の狭さという特徴があると小林さんは話します。「デキる男=仕事ができて女性にモテる」として、スーツとネクタイ姿の白人男性という型にはまった表現が使われ続けているのは、これだけ労働環境が変わっている中で無理があるのでは、との指摘がありました。理想化されたサラリーマン像の押し付けや強固なイメージについて、それらが表現することを盲信するような見方には、警鐘を鳴らします。
また男性向けのサービスの広告の中には、スーツ姿の白人男性を理想像として表現する一方で、女性がサービス提供するシーンをエロティックに描くケースもあります。男性はこういうものを求めている、ということを広告に投影するにあたって女性をサービス役に設定することにも問題があると小林さんは指摘します。
小林さんからは白岩玄氏の東洋経済のインタビュー内「バカとエロの大縄跳び」という表現も紹介いただきました。男性が成長の過程で同性同士でバカなことを一緒にする、性的なものを共に享受する中で関係性を深めること、またそれがとても強制力があることを表現したものです。まさにホモソーシャルを表す発言ですが、白岩氏はその状況が苦痛だったとコメントしています。
広告が人々の中に認知を作っていく過程で、女性に対する蔑視意識や、女性はサービス役であるという意識が形付けられる現状があると小林さんは話を進めます。炎上につながってしまうような広告表現はそういう価値観がベースにあること、だからこそ表出した表現だけを単純に非難するのではなく、認知の構造を意識する必要があるとお話しいただきました。
観察の意識をもって物事をみる
公共広報の「テロを許さない」「痴漢は犯罪」といった治安に関連するポスターは、年配の男性が眉間にしわを寄せて威圧的な態度で捉えられた写真がよく使われています。これは年長の男性から強い語調で指示されたら見る側は従うだろう、という家父長制的な価値観に裏付けられていると小林さんは指摘します。「治安を守ることは非常に大事ですが、こういうメッセージの投げかけ方はどうでしょうか?治安を守ることは脅されてやることなのでしょうか?」「アイキャッチとして若い女性タレントばかりが使われたり、ケア役として優しく語りかける役割を女性に固定化するのはちょっと違うのではないでしょうか?日頃よく見かける、こういった固定的な作り方に対して問題提起する必要があるのではないでしょうか?」と小林さんは問いかけます。
そして「観察して発見することが、いつか何かの理解につながることがある。観察の意識をもって物をみることを意識化するのが良いのではないでしょうか」と講演を締めくくりました。
休憩を挟んで後半は「意識的に観る側になる」ことを目的に、事前に提出した課題をもとに小林さんと聴講者が対話する時間に移ります。
今回、事前に参加者のみなさんには下記のような簡単なワークに取り組んでもらいました。
「日常で違和感を覚えた広告とそれに対してのコメント(気になった箇所)を教えてください。」
その結果、所属の垣根を超えた多くの方から、広告へのリアルな違和感が寄せられ、「広告は注意喚起できればそれでいいのか」「適切な注意喚起の仕方はあるのか、あるとすればどのようなものか」といった本質的な議論がなされました。
参加者からも、次のような感想が寄せられています。
セプテーニグループでは、今後もより良い広告表現を社会に届けることで、なめらかな社会の実現を目指してまいります。
小林さん、ありがとうございました!