いかなる花の咲くやらん 第9章第3話 「千夜一夜」
その頃、十郎は大磯の永遠とともに曽我の里へ来ていた。
「どうしたのですか。私の顔をじっと見られて。とても悲しそうな目をなさいますね。何かあったのですか」
十郎は何も伝えず 出発するつもりでいたが、(何も言わずに死んでしまったら どれ程悲しまれることだろう。彼女の真心を裏切ることになるまいか。でも、今の決心を伝えると別れ難くなってしまう。これほど愛した人を残して旅立つ我が身が恨めしい。しかし父の仇を打たずにこの先 生きながらえていくことも また恨めしい。)
「私は何を聞いても大丈夫です。ご決意なさったのであれば はっきりと胸の内をお伝えください」
十郎は重い口を開いた。
「私に成し遂げたい思いがある事はご存知ですよね。そのかねてからの思いを果たすために、この度狩りのお供をすることに いたしました」
「今までも祐経どのがお出掛けになるたびに あとを追っていらしたのとは違うのですか」
「はい 今までは、隙あらばと思っておりました。命をかけたつもりではおりましたが あわよくば曽我へ戻り、永遠殿と共に暮らしたいと 甘い考えを持っておりました。しかし そのような生半可な気持ちでは 神のご加護も受けられず ただいたずらに時を浪費して参りました。この度は本当に覚悟を決めました。万が一その場で討ち取られようとも 必ずや想いを果たすつもりです。再び曽我の里へ帰ることはありますまい。明日 出発したら もうお会いすることはないでしょう。あなたと知り合って早三年が過ぎました。貧しい身の上ゆえ大した楽しい思い出もなく、ただひたすら愛おしいというだけの心のままに過ごした三年です。悲しい思いをさせてしまうことが本当に辛い」
「楽しい思い出がないなんて その言葉の方がよっぽど悲しいです。私は幼い頃梅林で初めて会ってからずっと十郎様のことだけを考えておりました。その思いの強さ故、八百年の時を超え、十郎様の元へ参りました。その十郎様と恋仲になって 毎日輝くほどに満ち足りた日々でした。思い出してください。三浦、鎌倉、小田原、二宮、あちこちに共に馬に乗り 遠出をいたしました。桜の花びらが流れる渋田川を船で下ったこともありました。きらめく海で魚釣りもしました。由緒正しいお宮様へお参りは身の引き締まる思いがしました。十郎様と一緒に頂く朝餉はどんなごちそうよりも美味しかった。日向薬師へお参りしたときのことを覚えておいでですか。日向薬師の帰りに通った日蔭道から見た美しい風景。一面の彼岸花と夕日に染まる空。その境が分からないくらい真っ赤な世界でした。私たちも赤く染まって。あんな美しい景色は初めて見ました。
永遠はずっと幸せでした。私は十郎様と共に添い遂げたいと思います。ずっと共に生きていきたいと思います。
ですが、十郎様のご決心を私は止めることはできません。きちんと伝えてくださってありがとうございます。御本懐が見事 果たされますよう お祈りしております」
十郎は鬢の髪を切って「これを形見として下さい」と手渡した。永遠はそれを胸に抱いて泣くまいと 血が出るほどに 唇をかみしめた。それでも頬を伝う涙はとめどなかった。
「永遠さん、今宵限りの手枕で 千の夜をこの夜一夜で過ごしましょう」
月星が去り 空が赤く染まり 朝を告げる鳥が鳴き それでも離れがたい二人であった。永遠は上着の綾の小袖を脱いで「これを十郎様の肌着の小袖とお取り替えください。十郎様の小袖を形見として我が身から離さないようにしとうございます」
二人は共に馬に乗り 曽我と中村の境にある やまびこ山の峠の六本松に着いた。「ここで別れましょう。名残惜しさは付きませんが、同じ浄土に生まれ変わって、その時こそ添い遂げましょう」峠のあちらとこちらへ別れゆく二人。山に憚られ 振り返っても相手の姿を見ることも叶わなかった。永遠は大磯に帰ってから衣をかぶって転げまわって 泣き続けた。その姿を見た亀若は、永遠が覚悟を決めた十郎と今生の別れをしてきたのだなと全てを察した。そして、すぐに家を出た。
参考文献 小学館「曽我物語」新編日本古典文学全集53
次回 第9章第4話 「母のおもかげ」 に続く
曽我についての記事は上記にあります。お楽しみ頂けると幸いです。
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