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エーリッヒ・フロムの「愛の技術」を読む中 単相1: 与えるということ

相手が誰であるかによって、どのような内容をどの程度話すか、そして相手からどのような利益を引き出せるか、あるいは自分の言った内容やニュアンスのせいでかえって自分が損をすることはないかを考える。 言葉だけでなく、行動をするときにも同様である。 特に行動は、大抵は物理的な移動を伴うことが大半であるため、自分がこれだけの手間をかける価値のある人間なのか、より一層考えるようになる。 つまり、いつの間にか私はかなり利他的な人間になってしまったのだ。

このような考え方により、私は一方的にエネルギーを節約するようになった。 なぜなら、他人に自分の本当の姿を見せ、認められようと精を出す必要がないからだ。 むしろ、相手の傾向や関心に合わせて適度にペルソナを作り、それに応じて演技することが、その関係や集団での生存確率をさらに高めるようだ。 また、このようなペルソナの下で演技することに慣れると、本当の自分とペルソナの境界がますます明確になり、人生の転換が促進されることもある。

もちろん、このように境界が明確になることは、時にアイデンティティの混乱を招くこともある。 私が生きている大半の時間はペルソナの下で演技する瞬間で満たされ、ごくわずかな時間、様々な環境条件が満たされた時だけ本当の私として生きていると思われるからだ。 また、どんなにペルソナであっても、それを持続させるためには地道な勉強と努力が必要であり、本当の私を維持するよりも生存に密接につながる部分があるため、より敏感になることもある。

だからこそ、私は信頼できると思う人たちと本当の自分としてコミュニケーションし、機会があれば共有する価値を一緒に実現していきたいと思っています。 時間、感情、認知力、お金、努力の全てが限られているため、誰を信じるか、信じる人と何を共有するかさえも選択するしかなく、彼らとの関係でもまた別のペルソナが生まれるかもしれない。 それでも、信じる人々との関係において、私が共有するものはもう少し真実であり、私の本質に近いものである。

真実の関係において共有される価値を共有し、相互に理解可能な思考と行動を共有することは、私を一段と深く成熟させ、さらに一歩先に進ませる。 これは、すべての面で必要以上の要素を備えた完璧に近づくという意味ではなく、自分自身にもう少し適した完璧に近づくというニュアンスとしての発展である。 言い換えれば、もう少し自分らしくなることができる。

それによって達成したい目標は、やや逆説的ではあるが、もう少し普遍的な状況で、もう少し真実の人間として生きることである。 たとえ自分の本当の姿を全ての場面で全ての人に見せることはできないだろうし、また、本当の姿というものすら絶えず変化し続けるので、それすらも曖昧な概念ではあるが、人間関係において、私が相手に渡す短い一言、二言、私が見せた小さな行動の一つ、二つが相手の心に届き、それによって相手が自分の置かれている状況で必要な助けを受け、より良い状態へと進んでいくこと、それを実現したい。

結局、生きるということは、基本的に他人に無害であることを前提とし、可能であれば他人に利益をもたらすことを目指すことである。 たとえ完全な真実を常に明らかにすることはできないが、自分が発する小さな言葉、行動一つ一つが相手に届き、相手の人生にポジティブな変化をもたらすことこそ、私の目指す方向性である。

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