「正欲」朝井リョウ
この世の全ては、明日生きていたいという原始的欲求を持つ人のために存在する
これは小説冒頭で提示される命題です。そして、この命題は物語全体に一貫するテーマでした。この命題の裏を取れば、明日生きていたいと思えない人間にとって、電車にぶら下がるどの広告もスーパーの特売品も選挙も駅前で声をかけてくる不動産の営業もナンパも、その全てがなんの意味を持たないものであるということです。人はみな、明日を生きていたい。このことを前提に世界は動いているということを、朝井リョウは淡々と小説冒頭で突きつけてくるのです。桐島を入口に朝井リョウ作品に触れようとする人間に対して、彼の作品はあまりに酷だと私が思うのは、彼の作品の孕むこのような社会学的性格が理由です。
りゅうちぇるのYouTubeを見るのが好きでした。社会の隅っこでか細く息をする人間がひと息つける居場所がそこにはありました。でも、それすらも社会は許容しませんでした。それ故に、多様性を謳う社会を殴り殺したいと思いました。結局は、マジョリティの価値観に基づいて作られたルールが絶対的に支配する社会であることを嫌でも思い出さなきゃいけなかった。
宇宙は広くて、形がありません。それなのに、マジョリティは世界を無理やり立方体として認識しているようなものです。潔癖で几帳面で神経質な人たちがやっていることなのでしょうか。自らが形作った社会の範囲外にあるものはブラックアウトして彼らには見えません。私たちが宇宙の外に何があるのかを知らないのと同じです。一般的価値観の是とするもの、非とするもの。その是非の判断基準もまた一般的価値観によって体系化され、そのことを信じて疑わない人たちによって運用されています。でも、宇宙の果てから見れば誤認であるかもしれないその価値観を、誤認であるかもしれないと考える想像力も懐疑心もこの社会には形成されていないのです。
この話、この本読んでない人にも伝わるのか不安になってきた。そもそも、この本がマジョリティにとっての何であるのかが分からない。
何にでも名前を付けないと気が済まないこの社会で、名前の付いていないものに社会的価値は与えられません。この世の中のほとんどのものに名前を付けてしまったつもりでいて、名前のないものに無関心を貫き、正義のような顔をして説教を垂れる人にあと何回傷つけられればいいのでしょうか。私たちはあと何回傷ついて、生きていかなければならないのでしょうか。周りの友達が好きなジャニーズやら韓流アイドルやらの話で盛り上がっている中、動物の画集や動画を見漁っていた小学生の私に、多様性を謳う令和の社会はどんな手を差し伸べ、何と名前を付けてくれるのでしょうか。ジェンダー理解を推進すると声高に叫んだ法案のどこを探しても、探していたものは見つかりませんでした。
小学生の私は、その探し物をネットの世界で見つけました。3DSを通じて作られたコミュニティの中で、自分と年の変わらない子たちも大学生も社会人も自分と似通った趣味嗜好を当たり前のように自由に表現していました。学校では理解されないことでも、そこにいる人たちは共感して、対等に話をしてくれました。高校生になってからは、Twitterというもっと大きな世界でそれはとても自由に息をすることができました。母親は勝手に入った私の部屋で見つけたスケッチブックを見て、泣いていました。
生きづらい、生きづらい、生きづらい。そう思いながらずっとずっと、生きてきました。はやく誰か私に名前を付けて、一括りに束ねてほしいと何度も思いました。周りの大人は、お前は何という種族に属するのかしきりに尋ねてきました。セーラー服が嫌だと言えば、学ランを持ってくる大人と向き合うことが、社会と向き合うことが、自分と向き合うことが、自分という存在を全て否定するようで苦しかった。立方体の社会ではなくて、私はその外の分散する宇宙で生きている人間でした。
マイノリティが唯一自由に息をできていたネットの世界ですら、今は立方体の中です。マイノリティの住処だったネットは一般化され、誰もが土足で踏み込む生き地獄みたいです。多様性を謳う正義感の強い人間に、求めてもいないのに勝手に名前を付けられて勝手に肯定されて、あなたはあなたらしくいていいのよ、みたいな耳触りがいいだけで中身なんて何もない言葉をかけられて、彼らの妄想する理想の世界観に付き合わされるようになりました。私たちは、あなたたちの立方体の中に取り込んでほしいとは思っていません。ただ、その外にある広い宇宙で、それぞれの銀河系の中で、ひとつの星でありたいと願うだけです。立方体を抜け出して、宇宙で星になると決めた人たちを、頼んでもいないのに立方体の中の倫理に照らし合わせて否定し、ひとつの星の輝きを消してしまった社会を、どうしても憎んでしまいます。
願わくば、いつか、立方体がぶっ壊されて、囚われていたたくさんの星たちが宇宙に霧散して、誰よりも美しく、綺麗に輝いていく未来が訪れますように。
先に星になってしまった人たちと、そこでまた、巡り会えますように。
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