「三つの名を持つ少女 その孤独と愛の記憶」三毛
一度、落として割ってしまった花瓶を元通りの形になるように修復したとしても、それは元の花瓶ではない。他人から見れば、汚く、醜く、歪な形になってしまったとしても、私はその傷を含めて愛するしかない。割れてしまった花瓶の破片が心に突き刺さって血が止まらなかったけれど、誰も気付いてくれなかった。誰も助けてくれなかった。
「あなたのためを思って言っているの」
「あなたのためを思って」
「あなたのために」
なぜ大人の説教の枕詞は揃いも揃ってこうなのだろう。私のためを思っているのなら、私のことを心配しているのなら、私の心から流れだして止まらないこの血に気付いてくれてもよかったじゃないか。
誰も私の心の傷まで見ようとはしないくせに、私の心にズカズカと土足で踏み込んでは自分の意見や言い分を吐き捨てて帰って行った。自分の気持ちを言語化したところで否定された。何を言っても一方的に決めつけられて話を聞いてもらえなかった。次第に、もう何を言っても無駄だと、自己主張が出来なくなっていった。大人を目の前にすると、言葉が詰まって出てこなくなった。なぜ黙るのかと聞かれても、言葉はもう出てこなかった。心の中では感情がぐちゃぐちゃになって沸き上がったけれど、それを言語化して伝えることが出来なかった。そうしたいとも思わなくなった。
でも、可哀想だと思われたくない。だってそんなの、割れる前の花瓶の方が良かったって言っているようなもんじゃないか。割れた花瓶は、割れる前の花瓶の形にはもう戻れない。元通りになって良かったねと笑う人に私は心を開けない。だって、傷も醜さも含めて私は私を愛している。結局、私は私にしか愛せないんだと最近になって気付いた。
援助交際も自傷も自殺も誰かの苦しみも悲しみも、大量生産されて大量消費される時代に生きるのは簡単じゃないし、心はどんどん擦り切れていく心地がするのに、どうして私は生きているんだろう。
小学生の頃、やんちゃだった私は休み時間に思いっきり遊び回って服が汚れ、先生に教室に上げてもらえなかったことがあった。連絡を受けた母はすぐに迎えに来て、中庭に泥だらけでひとりぼっちで待っていた私を抱きしめた。その年の通知表にはマイペースな子、と書かれていたが、母はそれを見てにこにこと笑っていた。当時の私は、マイペースという言葉の意味こそわからなかったが、母が笑っているのならきっと良いことなのだろうと思った。
母は、当時私の担任だった先生に、この子は図工しか出来ませんと言われて悩んだ時期があったらしい。小学生の私はそんな母の気持ちには気付けなかったけれど、いつも夏休みが明けたら、私は自分の工作作品を両手に抱えて、誇らしげに学校に向かった。絵を描けば、それはすぐに賞を取って、先生の手によって教室に貼ってもらえた。
毎朝、学校に向かう道中で私はいろんな人に挨拶をするのが日課だった。旗を持って交通整理をしてくれているボランティアのおじいちゃん、畑仕事をしているおばあちゃん、犬の散歩をしているお姉さん。道草を食っているといつの間にか通学路に自分以外のランドセルは見えなくなって、私がようやく教室に着く頃にはクラスメイトは既に勢揃いしていた。先生は社長出勤だね、と言ってクラスのみんなが笑った。私は社長出勤というものがどういうものなのかは分からなかったけれど、みんなが笑っているのがうれしかった。
帰り道にまた、畑仕事をしているおじいちゃんやおばあちゃんに、大きな声でただいまと言う。たまに畑まで呼ばれて、両手にいっぱいの野菜を持たされて、それを抱えて帰路に着く。そして次の日の朝には、その野菜をどんなふうに食べたか、どんな味がしたかを話しに行った。そうこうしているとまた、通学路をぐんぐん進んでいく無数のランドセルの群れに置いて行かれてしまった。当時の畑は、今はもうマンションのコンクリートの下だけれど、私はあの日の夏の日差しと土の匂いをまだ覚えている。
母は、そんな私に黒柳徹子の窓際のトットちゃんという本をプレゼントしてくれた。トットちゃんが私の良き友になるだろうと思ってのことだったらしい。実際、私とトットちゃんは心通わせる最高の友達になった。そのままで、ありのままでいいんだよ、とトットちゃんはいつも私に言ってくれた。そんなトットちゃんのことが私は大好きだった。
高校生になって、自分の教室にも行けず、一日のほとんどの時間を保健室で過ごしている私を見かねた先生が、図書室まで私を連れて行って、そこにいた司書の先生に、この子が授業時間にひとりで図書室に来ても、何も言わないでくださいと言ってくれた。それから、私は一日のほとんどの時間を他の生徒は誰もいない静かな図書室で過ごすようになった。ある日は北極で遭難した夫婦と、ある日は武道館を目指すアイドルの少女たちと、またある日は私と似た心が傷だらけの女の子と、私は日々を過ごした。
孤独な三毛にも心の中にはいつも温かな灯りが宿っていただろう。それは彼女がまだ小さなときの記憶の灯火。彼女も本の中に、私にとってのトットちゃんのような最高の友達がいただろうか。人生には、時として、暗闇にひとり取り残される日がある。そんな真っ暗闇の中でも、その温かな灯りを頼りに人は生きていく。たとえ、その灯りが消えかかっていたとしても、私たちはその灯火を大切に、消えないように、醒めないように、抱きしめて、生きていく。
石風社福元さんへ感謝を込めて
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