3歳君と3か月君
仙豆は3歳になった。
オズは3か月になった。
仙豆は事前に練習でもしていたかのようにお兄ちゃんをやっている。
オズは二人目の子だと知っているかのように親の限界を試してくる。
最近仙豆は、日本語力を急速に伸ばしている。
最近オズは、なにかしらの言語を発している。
兄弟姉妹を比較してはいけないという。
無理だ。
無理だし、比較させてもらい、それぞれの特徴をそれによってより正確に測る方がむしろ、本人たちに適切な教育や環境を与えることができるように思う。
↑こちら生後3か月の仙豆。かわいい。
↑こちら生後3か月のオズ。なんだかかっこいい。
↑こちら生後3か月の仙豆。偏見だけどスキンケアちゃんとやりそう。
↑こちら生後3か月のオズ。偏見だけどバイク乗りそう。
…言うまでもなく、偏見を元に教育を施してはならない。あくまで客観的事実を積み上げていかなくてはならない。
比較してはいけない、というのは、比較したうえで、そこに一方的な価値づけをしてはいけないということだ。
「あなたは右利きだね。おっ、あなたは左利きだね。」…これは問題ない。当たり前だ。これがダメなら舌を抜くしかなくなる。
ただどうしても人は、他人が褒められるのを聞くと、自分が蔑まれたように感じてしまいがちだ。「お兄ちゃんが感想文で賞状もらったよ凄いね!」。親はこの言葉以上の感情を抱いていなくても、これを聞いた弟が「お兄ちゃんの方が自分より優秀だ」と言われているように感じてしまうことはどうしてもあるだろう。しかしだからといって、家族に起こった嬉しい出来事を秘密にしては、もはや言論封殺沈黙家庭になってしまう。そもそもそれは事実ではない。思い込みでしかない。一人の人間の思い込みに他の人間の自由が束縛されてはならない。
兄弟がお互いに、事実に基づかない劣等感を抱かないようにするには、「少しでもいいところを見つけたら言語化して相手に伝える」ことを、地道に日々積み重ねることしかないように思う。そうして自己肯定感を着実に育てることだ。めんどくさがらず、丹念に。
「仙豆兄ちゃん、今日も肌が綺麗だね」
「そう?ありがと。そういえばオズ、もう自転車乗れてるのね。凄いな」
「え、そう?ありがと」
これはちょっと不自然な感じもするけど、とにかくこんなような、兄弟がお互いを高め合う会話をするようにしたい。互いの長所に目を向け、それを指摘し合うようにしたい。
それにはやはり、彼らの親である僕と母ちゃんが模範を示し、そういう会話が普通であるという家庭内文化を作っていくことが欠かせないだろう。
例えば今日僕は、母ちゃんを褒めただろうか。LINEを確認してみよう。
ダ「お弁当がとんでもなく美味しい。ご飯がまず美味しい」
カ「え、よかった!美味しいか心配でした」
ダ「高級弁当みたい」
カ「嬉しすぎる…涙」
ダ「2000円の駅弁」
…どうだろう。大丈夫だろうか。3000円にしといたほうが良かっただろうか。
ダ「Instagram、1.6万なってた」
カ「すごいなあ、ダダは。フォロワーさんどんどん増える」
ダ「カカのダンスが凄いのよ」
カ「そこをどういう切り口で世に届けるかってことが重要なのさ」
…どうだろう。大丈夫だろうか。カカにはどんどん踊ってほしいから、「凄い」じゃ不足だっただろうか。
明日、日曜日は、もうちょっと意識的に「褒める」ことを母ちゃんにやってみよう。「かわいい」は多分聞き飽きてるだろうから、何か別の切り口で。
仙豆にもやってみよう。「かわいすぎる」は絶対聞き飽きてるだろうから、何か別の切り口で。
何語で喋ればいいか分からないけれど、オズにもやってみよう。「つええな」以外の、何か別の切り口で。
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