【読書雑記】影響を受けた「創作観」-芥川龍之介『戯作三昧』の滝沢馬琴-
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谷崎潤一郎(1886~1965年)の『文章読本』に、遠藤周作(1923~1996年)の『十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい』にと、文章を書くためのテクニックを論じた作家による著作は、いまや、書店などで手に取りやすいものとなっています。
その中から「創作」に限ってみても、「小説の書き方」を教えてくれる書籍は、数多く刊行されています *1。さらにSNSにおいては、プロ・アマチュア問わず、「創作」に対する持論を投稿する方を見かけることがあります。
プロの作家による「小説講座」もあちこちで開かれていますし、物書きどうしが議論を闘わせる場を提供してくれる、通話アプリ(サービス)もあります。
わたしたちはいま、文章を紡ぐために、そして小説を作るために、様々な「情報」を得られる時代にいるのです。
しかし「創作」をめぐる議論は激しい応酬を見せることもあり、昨今の小説の傾向や相手の持論を、手厳しく攻撃(口撃)している光景も、しばしば見かけます。
そうした光景を目の当たりにする度に、自分も物書きである以上、「俯瞰して見る」ことは到底できません。「十人十色で良いのではないか」という、わたしのスタンスもまた、わたしの「持論」として、「創作論」の一つとして数え上げられることになるのです。
しかし、持論がぶつかり合うということは、裏を返せば、多様な考え方が共存しているということでもあると思います。それに、自分の「創作観」を揺すぶってくれる、誰かの持論に触れることもあります。その「誰か」というのは、わたしの場合、創作のなかに登場する人物であることが多いです。本記事の主役である「滝沢馬琴」もその中の一人です。
――と、前置きを書いているうちに、ひょっとしたら、この記事は長くなってしまうのではないかと不安になってきました。それでも、テーマをひとつに絞って、なるべく寄り道をせずに書いていこうと思います。
本当は、芥川と谷崎の「小説の筋」論争であったり、西村賢太(1967~2022年)の私小説との向き合い方であったり、書きたいことはたくさんあるのですが、ここではぐっと我慢をして、別稿に譲りたいと思います。
以下では、先日通読(再読)をした、芥川龍之介(1892~1927年)の『戯作三昧』という小説を紹介させていただきながら、芥川が描いた滝沢馬琴の創作に対する姿勢について書いていきます。
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芥川龍之介の『戯作三昧』は、要約すると、次のようになります *2。
この物語の主人公・滝沢馬琴は、朝風呂のために赴いた湯屋で、ひとりの読者に声をかけられます。この読者は、馬琴の『南総里見八犬伝』をこころから褒めたたえます。
しかし馬琴が湯船につかっているとき、先ほどの二人の会話を耳にしていた或る男性が、彼にまで聞こえるような声で、『八犬伝』を含む彼の著作をこき下ろします。つまり馬琴は、好意的な感想と悪評とを短時間のうちに聞くことになったのです。
朝風呂から家に帰ってきた馬琴を待ち受けていたのは、本屋を営む市兵衛という男でした。市兵衛は、原稿を書いてもらいたいと彼に依頼をするのですが、馬琴は容易に首を縦に振りません。市兵衛は、馬琴に承知してもらうために言葉を尽くすのですが、それは馬琴にとって却って不快なことでしかありませんでした。
市兵衛が去ったあと、入れ替わるように知人の渡辺崋山が直筆の掛軸を持って来ます。ふたりは、芸術論を闘わせたり、お互いに励まし合ったりします。そして馬琴は、同志の崋山の訪問のおかげもあって、執筆のために原稿と向かい合います。しかし、書きためてきた原稿を読み返してみると、その出来栄えに納得ができなくなってしまうのでした。
そんな時、用事から帰ってきたばかりの孫が、彼の書斎に入ってきます。そして、この孫の「ある言葉」によって、思いがけぬ感銘を受けた馬琴は、『八犬伝』の続きを夢中に書きはじめるのでした。
これはあくまで、わたしなりの要約ですので、ぜひ、本作を読んでいただきたいと切に思っております。
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上の要約にあるように、滝沢馬琴は、湯屋で『八犬伝』を中心に自分の「創作」を(迂遠な形で)こき下ろされてしまいます。その悪評を聞いた馬琴は、次のように思います。
自分の作品への悪評と相対したとき、その悪評を「否認する」目的で「反動的な」作品をつくってしまう危険があると、馬琴は警告します。
わたしは幸いにも、そうした危険に陥ったことが、一度もありません。しかし〈気にしい〉な性格ではあるので、これから先、自作への悪評を受けたときに、とても動揺してしまうと思います。
そんなときに、創作を通してそれに応えることは避けて、自分が〈それでいい〉と思っていることをしっかりと守っていきたいと、馬琴の訓戒から考えました。
彼に対して不愉快な感情を与えたのは、湯屋で聞えよがしに悪評をぶつけてきた男性だけではなく、原稿を催促に来た本屋の市兵衛も、そのなかの一人です。
市兵衛は、為永春水と柳亭種彦という同時代の作家の名前を出して、彼らの筆の速度に関することを馬琴に聞かせます。それを聞いた馬琴は、「自尊心」を毀損される思いになります。
しかし彼の「遅筆」は、反対に「芸術的良心」の証明として彼の中で位置づけられることによって、コンプレックスとして凝固してしまうことを回避していたのです。
この部分を読んだときに、思わず感情移入をしてしまいました。
創作活動を始めてからというもの、様々な物書きの方々と知り合いになりました。次々と作品を発表する方、無尽蔵なアイデアを持っている方、たくさんの人気を集めている方――などを目にするたびに、劣等感のようなものを抱えてしまいました。
その劣等感を恐れるあまり、自分のオリジナリティや魅力というものを、無理にでも発見しようと努めて、他の物書きの方々との差異を自分に言い聞かせてばかりでした。だからこそ、強く感情移入をしてしまったのです。
そしてこの懊悩から抜け出すためには、自分の〈将来〉に目を向けるしかありませんでした。これから創作を研鑽していくうちに、自分らしさは実感のあるものとして形作られていくだろう――というように。
あの滝沢馬琴が――芥川龍之介が描いた馬琴が、こうした苦悩を抱えていたということが、わたしには救いのように思えたのです。
馬琴は、孫の言葉に感銘を受け、『八犬伝』を完成させるべく、重くなりつつあった筆を執ります。そして、書きはじめる前には想定していなかったアイデア(インスピレーション=神来)に出会い、それが「消えて」しまわないように「注意に注意をし」ながら、手に取った「筆を運んで行」きます。
書いているうちに思わぬ〈閃き〉に出会い、当初のプロットを変更してしまうという経験は、少なくありません。しかし、その〈閃き〉を慎重に吟味しなければ、作品が根幹から崩れ去ってしまう可能性があります。
● どんどん書き進めて、次々に作品を発表しなければならない。そうしなければ、広く評価を得ることはできない――というような不安に抗い、良い作品を完成させるという最も重要な目的を果たしていく。
● 悪評に対する反駁の手段として創作を使わず、そして、他の人と比べすぎず、自分の〈軸〉のようなものを持って、焦ることなく一作を作りあげていく。
そうした《創作観》を、『戯作三昧』から――芥川龍之介が描いた滝沢馬琴から、直接・間接的に受け取りました。
そして、この馬琴の独白もまた、わたしの胸に響いています。
【注】
*1 実際、本記事の執筆者も、以下の参考書を所持している。森沢明夫『プロだけが知っている小説の書き方――あなたの才能も一気に開花』飛鳥新社、2022年。
*2 本作は江戸時代の文学とその作者にフォーカスしており、本記事の執筆者には門外漢な部分が多々ある。そのため、物語の要約に関しては、以下の文献の『戯作三昧』に対する注釈に大きく頼っていることを記しておく。芥川龍之介『芥川龍之介全集2』ちくま文庫、1986年。芥川龍之介『河童・戯作三昧』角川文庫、2008年。
【参考文献】
● 芥川龍之介『芥川龍之介全集2』ちくま文庫、1986年。
● 芥川龍之介『河童・戯作三昧』角川文庫、2008年。
● 遠藤周作『十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい』新潮文庫、2009年。
● 谷崎潤一郎『文章読本』中公文庫、1996年改版。
● 森沢明夫『プロだけが知っている小説の書き方――あなたの才能も一気に開花』飛鳥新社、2022年。