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【掌篇小説】 ラスト・ロスト
日の目を見ない芸人である自分を、見守り続けてくれていた母。
こんな自分とコンビを組んでくれた、相方である弥生(やよい)。
コンビ結成一年目からエントリーをしてきた漫才コンテストの、敗者復活戦を目前に控えた大空(そら)は、母への孝行と弥生との約束のどちらを選び取るかという難問を突きつけられた。
自分の選択は正しかったのか。そう悩み苦しむ大空だったが、意外にも父が道標を与えてくれた。
そして大空は、勇気を持ってある決断をする。
「ええ……次が最後になります」
スーツ姿の男性が持っているカードには、決勝進出者の名前が書かれている。もうすでに七組が呼ばれた。
決勝に初めて進むコンビは、なにかが破裂したのかと思うほどのハイタッチをしたり、数年ぶりに再会した恋人のように抱き合ったりしていた。
決勝常連のコンビは、黙礼をしただけで、名前を呼ばれて当たり前という風だった。
わたしたちは、どういう反応をすればいいのだろう。
十年連続で三回戦敗退。三年連続準々決勝敗退。今年ようやく準決勝進出。ここで敗れたら、あと一年しか挑戦できない。
コンビ結成十五年までの「漫才師」が出場できるというレギュレーションになっているから。
男性はよく通る声で、カードに書かれたコンビ名を読み上げる。
「エントリーナンバー《2010》」
ああ、ダメだった。
「廻転回」
ふたりは、抱き合って喜んだ。もう涙も流している。彼らには初めての決勝の舞台が待っているのだから。それに、ラストイヤーなのだから。
わたしたちができるのは、拍手くらいで、彼らに駆け寄り「おめでとう」なんて言えやしない。
まだ〈敗者復活戦〉があるとはいえ、三十組の中からあの憧れの舞台に立てるのは、一組だけだ。その枠に入ることのできるネタは、いまは持ち合わせていない。
だからといって、新ネタを作ることができるだろうか。爆笑をかっさらえるような。確実に勝ち上がれるような。そんなネタを。
カメラマンがわたしたちにコメントを求める。
《漫才ワングランプリ》のオープニングに使う予定なのだろう。毎年、感動的な映像を作り、視聴者を引きつけている。
「最後まであがきますよ。まだ、希望はありますから」
とても使いやすいコメントだ。でもほんとうは、こう言いたい。
「きっと来年も、ここで終わりでしょうね」
いまは、希望と諦めが交叉する場所にいる。
決勝進出者を発表するあの場所で、すでに、どうせ自分たちの名前は呼ばれないと思っていたというのも、紛れもない事実だ。
弥生から電話があったのは、午前二時だった。まだ昨日のことは、鮮明に思いだされる。きっと弥生も眠れないのだろう。寝ているふりなんてしないで、受けとった。
――大空。いまからネタ合わせをしようよ。どうせ眠れないんでしょう。事務所の近くの公園に来てよ。わたしは最後まで、死ぬ気で闘いたい。
秋は深まり、もうすっかり寒くなった。風邪を引かないように厚着をして、自転車にまたがった。月の破片のような星が、うっすらと張ったセピア色の雲の隙間から見える。そんな夜の中を、涙をこらえながらペダルを漕いでいく。
「わたし、このネタしたくないな」
「なんで?」
「だって、笑ってしまって、ツッコミをするのが大変なんだから」
いつだって、弥生は笑い声を出したりしながら、わたしの書き下ろしたネタを褒めてくれる。苦労して作ったネタを一番に笑ってくれるのは、弥生だ。
「じゃあ、違うネタにしようか」
「ううん。笑うのを我慢するから、やっぱりこのネタにしよう。本番までに、ネタ尺とか言い回しとかを調整していこうよ」
熱々の缶コーヒーを弥生へと渡した。本当にじゃんけんに弱いな、わたしは。
「静かだねえ」
「だれもいないからね」
「本番はたくさんのひとがいるし、テレビ中継もされるし」
「それで緊張するような芸歴じゃないでしょ、わたしたちは」
弥生はクスクスと笑い、握りこぶしを突きつけてきた。缶コーヒーの持ち手をかえて、まだ温もりの残る右手でコツンとタッチした。
夜が明けきる前に別れて、家に帰るとすぐにふとんに潜り込み、午過ぎまで眠った。
日の目を見ない芸人であるわたしを応援するでも嫌うでもなく、見守ってくれていたひとの死は、いいようのない空白を、わたしのこころのなかに埋め込んだ。
煙草を吸うと言って外へ出た。酒も煙草も知らないわたしは、雪の積もった山の方へと畔道を歩いた。肌に触れる寒い風も、服のなかに入り込んでくる冷たい空気も、身を灼き焦がすような痛みを与えてくる。
父さんから電話がかかってきて、もうそろそろ散歩から帰ってこいと言われた。
敗者復活戦を辞退することを決めるとは思わなかった。笑いを我慢してツッコんでくれる弥生はいま、どういう気持ちでひとりいるのだろう。
葬式に列席するかしないかで、ぐらついていたわたしの気持ちを固めてくれたのは、弥生だった。
帰ってきたわたしに対して、父さんは言ってくれた。
「行っていいんだぞ」
「いいよ、最後までいるよ」
わたしは、そう答えるしかなかった。
部屋に敷いたふとんにくるまると、玉のような涙があふれてきて、声を押し殺して泣いた。もし帰るなら今日だった。
明日の昼から夕方のあいだ、わたしはどんな気持ちで存在すればいいのだろう。来年があるさ、なんて思えるほど気楽ではない。
火葬場へと母を送りに行くとなったときに、父さんは、三枚の切符を渡してきた。
「お母ちゃんは、きっと、浮かばれないよ」
「そんなことない。見送りに来ないなんて、親不孝だから」
「バイトをしないと食っていけない芸人なんだから、孝行も不孝もないだろ」
いままで何度も、芸人を引退しようと考えた。そのたびに、弥生が辞めないのなら踏ん張ろうと思い直した。こんなわたしとコンビを組んでくれた弥生を捨てて、お笑いから遠ざかることはしたくなかった。
「いいから、行ってこい。お前が孝行とか言うのなら、親には親で、子供の夢を応援する役目があるんだよ」
テレビ局の近くにある敗者復活戦の会場は、去年から屋内となり、視聴者の投票制からベテラン芸人の審査員が評価する方式に変わったため、人気がなくても実力さえあれば、決勝へと勝ち上がれるようになった。
息を切らせて会場に駆けつけたわたしを見て、弥生は、本当に来てくれるとは思わなかったと言って、寂しそうに笑った。
「頭を下げて頼み込む気まんまんだったのに、弥生が辞退を申し込んでいないって聞いてびっくりした」
「運営さんには申し訳ないけど、ダメならダメでいいやって思ってた。でも、信じてたんだよ。大空はヘンなところがあるから、考えが変わってくれるかもしれないって」
ためらいながらも、わたしがこぶしを突き出すと、弥生はそれに応えてくれた。スタッフさんの合図を受けて、わたしたちは勢いよく舞台の上へと飛びだしていく。万雷の拍手のなかを切り裂くように、弥生は第一声を発した。
「みなさん、ごめんなさいね。うちの相方は、喪服とスーツの違いが分からないみたいなんです」
〈了〉