星になった人たち
訪問看護で仕事をするようなって、担当の方が星になることが続いています。
ここのところずっと考えています。
病院のときと今と捉え方が違う。
病院の時は、なぜか、自己嫌悪に陥って、何もできなかったと無力感、そして、自分の心が潰れるくらいでした。だから、僕は、この仕事を何度も辞めたいと思いました。早朝亡くなったと聞いたときには、看護師さんとエンジェルケアに入らせていただいたり、しっかりとお見送りをしているんですが、心がすごくしんどかったです。
今回も続いています。自分が関わって数日で急死された方、お父さんのところへ行きたいと話して、本当に1年後に病気が見つかり亡くなった方、若くして亡くなった方。
しかし、僕の心の中は、なぜか、ちょっと良かったなあと思える部分があるんです。佐々木淳先生の生活者の視点を知ってから本当に思うのが、生活者として関わっていたからかもしれません。僕も環境因子の一つであり、その人を中心としたときの一人なんです。ここは病院で勤めていた時と大きく違うことかもしれません。病院の中でスタッフが中心に動きながら、疾患を治療する。そして、改善させる。そこには、医療という大きなフィールドの中に、その患者さんがいます。
でも、生活者の中の一人として生きている。これは、自分の置き方もすごく楽になっています。悲しいですが、僕の中には「そうんなん言ったらあかんやん」という笑顔の利用者さん、目が不自由で僕の声とラジオの声が同じように聞こえていたのか、訪問に行ったら「昨日もラジオでがんばってたなあ、働きすぎて体壊しなや」と手をさすってくれる。ごめんね、ここ痛くない?と聞くと「ぜんぜん、楽やわあ」と言ってくれる人。僕の心に中に、刻み込めないほど、その人たちが生きている。
僕は、訪問看護で働くことすごく怖かったです。本当に死を目前となっている人との関りができるんだろうかと。しかし、それは違っていました。その人の生活者として生きている姿が、僕にはその人が生きている場面がいっぱい浮かんでくる。病院のベッドで、いっぱい点滴や酸素がついた無味乾燥のところとは違うのか?がんばって、その人の好きな音楽をかけたり、それを一緒に考えたり。でも。。。
在宅でのかかわりは、ダイレクトに心にくる。変に医療者としての片意地を張らずに、家にいったときには、何か空間を共有している。日常的な場所に自分がいる。
あらためて、病院の空間は非日常の場所だと思いました。特養でも、本当に日常としているところは、僕はあの人こんな風やったねと物語が話せる。
僕の中で、この仕事を辞めようか、そして、死をどう受け止めようかと思っていました。しかし、日常的に死はあり、その人が存在しなくなる。そして、その人の想い出や語りは残る。それが、自分のケアに繋がると思えるようになりました。
最後の最後には、たべられなくなる、だせなくなる。そして、死を迎える。でも、その瞬間まで食べられるものがあったり、快適に出せることができる。
そういったことを考えながら、今日も訪問を回っていました。
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