ダニエル・リカルド:握手の約束からルノーへの決断とその代償
2018年、ダニエル・リカルドがレッドブルを離れてルノーと契約したことは、F1界に大きな衝撃を与えました。特に、彼がレッドブルのオーナーであるディートリッヒ・マテシッツとチームアドバイザーのヘルムート・マルコとの間で結ばれた「握手」による合意を破棄し、その後、ルノーとの契約を結んだことは、彼のキャリアにおける重要な転換点となりました。握手による合意は、非常に重んじられるものであり、それは契約と同等の価値を持つものでした。レッドブルの内部では、この「握手」からの反転はある種の裏切りとして見られる可能性がありましたが、マルコはリカルドに対して恨みを抱くことはなく、その後も彼との良好な関係を維持しました。しかし、この出来事が、リカルドとレッドブル双方にとって大きな決断を迫るきっかけとなったことは確かです。
リカルドがルノーへの移籍を決めた背景には、いくつかの複雑な要素が絡んでいました。まず第一に、当時レッドブルはホンダエンジンへの切り替えを計画していましたが、その性能や信頼性に対する不安がリカルドの頭を悩ませました。それまでレッドブルはルノーのエンジンを使用していましたが、2018年シーズンをもってホンダに変更するという決断を下しました。ホンダは2015年からマクラーレンと提携していましたが、その間にトラブルが相次ぎ、ホンダエンジンの信頼性には疑問が持たれていました。マクラーレンとのパートナーシップも芳しくなく、ホンダはF1復帰後、なかなか期待通りのパフォーマンスを発揮できていなかったため、リカルドはホンダのエンジンに対して強い不安を抱いていました。
リカルドにとってもう一つの大きな要因は、チーム内の立場の変化です。2016年にマックス・フェルスタッペンがレッドブルに加入したことで、リカルドの地位は大きく揺らぎ始めました。当初、フェルスタッペンはトロ・ロッソ(現在のアルファタウリ)でレースをしていましたが、2016年のシーズン途中でレッドブルに昇格し、いきなりバルセロナで優勝を果たしました。フェルスタッペンはその若さと実力で瞬く間にチームの中心人物となり、リカルドの存在感が相対的に薄れていくことになりました。フェルスタッペンは非常に才能に恵まれたドライバーであり、そのプレッシャーに直面する中で、リカルドは次第にチーム内での将来に対する不安を感じるようになっていきました。事実、レッドブルはチームの将来をフェルスタッペンに託す方針を打ち出し、彼を中心とした体制を整え始めていたのです。このような状況で、リカルドはチーム内でのポジションを維持することが困難になり、自分自身のキャリアを再評価する必要に迫られました。
こうした中で、リカルドはルノーからの巨額のオファーを受け取りました。ルノーは、リカルドに年間2,500万ユーロという破格の条件を提示しました。レッドブルから提示されたオファーは、固定給が少ない代わりにボーナスが大きいというものでしたが、ルノーはリカルドに確実な高額固定給を保証しました。この経済的な魅力も、リカルドがルノーに移籍を決断する一因となったことは間違いありません。レッドブル時代のボーナス制度は、彼の実力に依存する部分が大きかったため、確実に得られる収入が保証されるルノーの条件は非常に魅力的に映ったのです。加えて、ルノーは彼にチームの中心的存在としての役割を約束し、彼にとって非常に魅力的な環境を提供しました。
リカルドの決断は、結果として彼のキャリアに大きな影響を与えました。ルノーでの挑戦は決して順風満帆なものではなく、期待されていたほどの成果は得られませんでした。2019年シーズンは表彰台に一度も上がることができず、2020年シーズンになってようやく2度の表彰台を獲得するも、ルノーがトップチームと渡り合うには程遠い状況でした。そして、2020年シーズン終了後、リカルドはマクラーレンに移籍することを決断しました。
最終的に、リカルドはルノーでの成功を収めることができず、F1キャリアの中での重要な選択肢を再評価することになりました。彼がルノーに移籍した理由は、ホンダエンジンへの不安や、フェルスタッペン中心のチーム編成に対する危機感、そしてルノーからの巨額のオファーという複数の要素が絡み合っていたことは間違いありません。この決断が彼のキャリアに与えた影響は大きく、今ではリカルド自身もその移籍が間違いであったと認める発言をしています。
リカルドにとって、2023年シーズン中のシンガポールGPはほぼF1最後のレースになると見られていましたが、正式にそれを告げる者はおらず、彼のキャリアに対する公式な別れのセレモニーも行われませんでした。この点について、レッドブルを避難する人もいるようですが、私はこれに対して非難するべきではないと考えています。むしろ、レッドブルがリカルドにもう一度チャンスを与えたこと自体が素晴らしいし、チームがリカルドに対して最後まで敬意を払った結果だと思います。
実際、他のどのチームからもオファーがなかった中で、レッドブルはリカルドをリザーブドライバーとして迎え入れ、さらに彼を再びレースカーに乗せる機会を提供しました。この決断は、リカルドにとって自分の実力を証明するチャンスとなり、キャリアの最終章を飾る素晴らしい形での別れであったと言えるでしょう。レッドブルは、リカルドに対して単なる契約上の関係以上のものを提供し、彼にもう一度F1での舞台に立つ機会を与えたのです。
もちろん、シンガポールGPでお別れの挨拶ができれば、良かったと思います。ただF1の世界では、契約は複雑で大人の事情がまかり通るのも、また事実です。
リカルドのキャリアは、レッドブルで最も成功した時期を迎えた後、ルノーとマクラーレンで苦しんだ時期を経て、レーシングブルズでの再起を図る挑戦を続けましたが、それは叶わぬまま、彼のF1でのキャリアは終わりを迎えつつあります。