舞台「デカローグ5 ある殺人に関する物語」観劇感想
福崎那由他さんのお芝居が大好き! ということでデカローグ5「ある殺人に関する物語」の感想と勝手気ままな考察をつらつら書こうと思う。
※作品に関する多大なネタバレを含みます。また、文中に引用しているセリフや舞台の流れについてはどうしてもうろ覚えの部分が多くあるため、正確性は保証できません。ご了承ください。
はじめに
デカローグ5「ある殺人に関する物語」は、2024年5月18日-6月2日にかけて新国立劇場小劇場にて上演された作品である。同時上演のデカローグ6「ある愛に関する物語」も素晴らしく、小川絵梨子さんと上村聡史さんの二人の演出家の方の演出を同時に楽しめる、贅沢な舞台だった。
とはいえ、私は舞台観劇は全くのド素人であったため、演出家によって何か違かったのか? と問われると上手く答えられない。この辺りはもう少し色々な作品を観るようになってから触れたかった部分かもしれない。もし円盤が出てくれたら何年後かにまた見返したりするのにな……と公式さんの方をチラチラ見ているのだが……出していただけませんか?
デカローグ全体及び「ある殺人に関する物語」のあらすじ
全体のあらすじと「ある殺人に関する物語」のあらすじを順に新国立劇場の公式サイトから引用する。
那由他さんが演じたのは20歳の青年・ヤツェクだ。今までも何かと殺人を犯す役が多かったが、ここまで社会的な内容を含んだものは初めてだったのではないかと思う。
弁護士のピョトルは渋谷謙人さん、タクシー運転手のヴァルデマルは寺十吾さんが演じた。
感想
それぞれの登場人物の衣装やセットなどは下記の動画を参考にしていただきたい。
また、舞台写真も公開されているのでそちらも是非。後述するが、こちらには大好きなヤツェクのシーンの写真があって嬉しい。
冒頭
舞台が始まると劇場内が真っ暗になり、すっと光が差し込むと下手側にピョトルが立っている。光が完全に当たり切ったところで、ピョトルが第一声を発する。
「法は、人間が互いの関係を調整するために作った理念である」
このセリフから一気に「ある殺人に関する物語」の世界が始まるのだ。22日に行われたシアタートークの際、渋谷さんは「(第一声は)緊張します。光が当たり切るまで待ってなきゃいけないけど、それが長くて、立っているだけで大変」とおっしゃっていた。私は原作の映画もプログラムA・Bも見ていなかったため、初日なんかは公式サイトのあらすじだけを頼りに観る状態であり、「これからどんな舞台が始まるのか」ということすらわからなかった。そんなふわふわとした人間をも一気に舞台の世界に引き込んでいく第一声。そこから立て続けにピョトルの「法」に関する持論が語られるため、最初の一言で集中していなければ、この先で語られるピョトルの死刑に対する考え方も見えにくくなる。きっと私が観ていない公演も含め、14公演の全てで渋谷さんはバシッとデカローグ5の世界を始めていたのだろう。最初からずっと良い。みなさん演技が上手い。楽しいなぁ。
ピョトルの語りの途中で、セットの建物の二階部分にヤツェクが登場する。あ! 出てきた! と思って見上げるとま~肌が白くてびっくりする。何度でも新鮮に驚く。日光の存在を知らないのだろうか。髪は今まであまり見たことのない分け方をしていたと思う。前髪がちょろんと垂れているところが好きだ。あと見える肌の面積が広いほど白さが際立ち、ライトを真上から浴びているときに至っては自発光でもしてるのかと疑うレベルだった。
そんなこんなでヤツェクが出てきたことにはしゃいでいるのも束の間。ヤツェクは二階の上手側に移動すると石を手に取り、下を覗き込む。
ここで注目したいのは、ピョトルが吸っていたタバコの灰を落とす、ヤツェクが石を落とす、ヴァルデマルの元に布が落ちてくる、と「落下」が連鎖することだ。上演台本を執筆した須貝英さんがデカローグ5・6のプログラム内で「放っておいたらそうなってしまう自然現象」が『デカローグ』全編を通して挿入されている、とおっしゃっていたため、このシーンは意図的に「自然現象」の連鎖が描写されているのだろう。
須貝さんは『デカローグ』に挿入される自然現象から発想を飛ばし、「人間は誰しも不意に、何かしらの激情に駆られることがあるものだと思います。それにどう抗うか。十篇の登場人物が全員、そこに直面しています。」と述べている。もし自然現象が「激情」のメタファーであるとするならば、ピョトルとヤツェクはそれを落とす=ぶつける側の人間だ。ピョトルはヤツェクと面会をするシーンや最後の場面で感情を露にする。しかし、ピョトルがここで灰を落としても何も起こらなかった。それは彼が「何もできなかった」ことを意味しているのではないだろうか。また、ヤツェクが石を落とすと下の道路では事故が起こる。ヤツェクが感情を露にするのはヴァルデマルを殺害するシーンと死刑執行の直前だ。つまり、彼の感情が爆発する瞬間には「命が失われる」ことが暗示されていると言える。
そして、ヴァルデマルの元には布が「落ちてくる」。そこで彼は「おい! 誰だ! なんなんだよチクショウが! くそ忌々しい」と吐き捨てて去って行く。彼が一番大声を出すのはこのシーンだ。殺害される際に暴れるのは当然のこととして、ここ以外に彼が大きな感情を見せることはない。布が落ちてくるのもそうだが、彼は自分から激情を見せることは少なく、何かしらのアクションに反応する形で感情を見せている。つまり、彼は感情をぶつけられる側の人間なのである。
冒頭のこのシーンだけでも登場人物たちの立ち位置が示されているのが面白い。最後まで舞台のどこにも無駄がないため、一時間があっという間なのだ。良い舞台を観た……まだ冒頭なのにな。
また、ここでは下手二階にいる”男”が柱に白いペンキを塗っている。これが十字架に見えて仕方がない。どの辺りかは舞台写真の二枚目などを見るとわかりやすいだろう。
十字架を辞書で引くと以下のような解説が載っている。
①の処刑道具としての解説は言わずもがなヤツェクを想起させるものである。そして、②の「尊敬・名誉・贖罪・犠牲・苦難の表象」というのがいかにもこの作品を象徴しているようだ。
尊敬・名誉は弁護士として社会的地位のある職業につくピョトルの属性だろう。贖罪はヤツェク、犠牲はヴァルデマルと言える。しかし、後述するがヤツェクが法の犠牲者になったとも捉えられるため、この「犠牲」にはヤツェクも含まれているかもしれない。苦難はピョトルの弁護、ヤツェクの人生、ヴァルデマルの死と三人それぞれに当てはまるところがあるだろう。
さらに、「人間へのもっとも現実的な愛を示すもの」は、デカローグ5を演出された小川さんが制作発表でおっしゃっていた「(人間の)存在自体に対するある種の根源的な肯定」と重なる部分であろう。キェシロフスキ監督が描いた「デカローグ」の世界の根底にあるものも含めて、この十字架は「ある殺人の物語」を象徴するものだと考えられる。これを十篇全てに登場する”男”が描いている、というのも何か象徴的なものが感じられる。
制作発表の様子はエントレ公式YouTubeチャンネルで見ることができる。サムネの中央にいる那由他さん、かわいいな……。
"男"は立ち去る際に二階から一階のヤツェクをまじまじと見ている。ここからヤツェク、ひいては「ある殺人の物語」の運命が始まる、ということなのだろう。
映画館~乗車拒否
ヤツェクが映画館の受付で話すところは5の中で唯一笑いが起こることがあるシーンだ。
「この映画、面白い?」
「ううん、退屈」
「どんな話?」
「男と女が、出会って別れる」
「あぁ、そう」
「だけど上映は午後から」
「そっか。……何してるの?」
「白髪抜いてる」
「へぇ……」
個人的に23日の「あぁ」がかなり「つまんないね」という感じがして好きだった。また、「へぇ……」のやや引き気味の言い方が好きで毎回楽しみだった。
さらに、ヤツェクはここで初めて「タクシー乗り場はあるかな?」と聞く。この時点でヤツェクがタクシー運転手を狙っていることは明らかだ。そして、受付の女性は「王宮広場!」と言うと、映写係の男性に呼ばれてそそくさとヤツェクの前から去ってしまう。
このシーンの背景は空がやや赤と青っぽく、「上映は午後から」というセリフからしても朝方なのだろう。また、建物としては時計台のような塔と幅の広い屋根が目についた。「王宮広場」ということは高い塔はワルシャワ王宮かなと思う。Googleマップで見てみると近くに教会があり、その建物の屋根が背景にあったような幅広の特徴的な形の屋根であった。場所の設定はワルシャワ王宮付近、ということなのだろう。
受付の女性が行ってしまい、映画館の前で手持無沙汰になったヤツェクは広場でハトにエサをやっている老人に突然「あっち行ってくれ!」と怒鳴られる。ヤツェクは「は?」と言い返すが、「あっち行ってくれ! ハトが怖がってる」と言われてしまう。いやこんな可愛い顔した人間に怖がるハトなんかいないだろ。私がハトなら喜んで足をつつきまわしている。
再三「あっち行ってくれよ!」と言われたヤツェクは渋々背を向けて立ち去るフリをするが、急に振り返ると思い切り足を踏み鳴らしてハトの群に突っ込んで行く。ここの驚いて飛び去ってしまったハトを見上げるヤツェクの爽やかな笑顔が本当に素晴らしい! この笑顔が好きすぎて、少し離れた席のときは毎回全力でオペラグラスを構えていた。シアタートークでは田中亨さんがここをお気に入りのシーンとして挙げてくださっていて嬉しかったのと、那由他さんがそれに対して少し照れたような反応をしていたのが可愛かった。
ハトと言えば平和の象徴だ。そのハトを蹴散らして笑ったヤツェクが、秩序を保つ法によって世界から疎外されることになる。ここもまた皮肉的なシーンのように思えてならない。
ヤツェクが走り去るのと同時に、上手からヴァルデマルが鼻唄を歌いながら登場する。
ここでヴァルデマルがバケツに手を入れて冷たくて仕方がない、というような反応をする。さらに、妊娠中の妻を病院に連れて行きたいからタクシーに乗せてくれと頼む男性が「この寒空の下でこれ以上待たせたくないんです」と言っていることから、季節は冬だろうと推測される。1986年のポーランドの1月の平均気温は-8.3℃、2月は-9.2℃であったそうだ。3月も2.0℃で十分寒いのだが、区分的には「春」だろうから(終盤のヤツェクの語り参照)、まだ冷え込みの厳しい1月か2月あたりの設定なのではないだろうか。それか平均気温-1.3℃の12月の可能性もある。
※参考:気象庁 地点別データ・グラフ (世界の天候データツール(ClimatView 月統計値))
また、この妻をタクシーに乗せたいと話す男性はデカローグ2で瀕死だった人物らしい。
どんな話だったのかはあらすじ程度しか知らないものの、今回ヴァルデマルが「洗車中だ」と乗車拒否をして、挙句の果てに乗せずにタクシーでどこかに行ってしまうのを見て「ちょっと!!」と憤りを見せていたため、元気そうではある。良かった。奥さんがその後ちゃんと病院に行けたかどうかだけ教えてほしい。
プログラムA・Bといえば、どこかで幼少期のヤツェクが出てきたそうだが、どんな子だったのだろう。普通の子だったのだろうか。ご両親との関係など、今になって知りたいことがたくさんある。ここはやはり円盤を出していただくしか……。
また、ここでヴァルデマルが男性を無視して道行く女性に「おはよう」と声をかけていたことから、やはりまだ朝方らしいことが伺える。
タクシー乗り場、ピョトルの面接
ヴァルデマルが行ってしまうと、舞台が暗転した後に上手からまたヤツェクが出てくる。舞台の奥で女性に「あの、これ、みんなタクシー待ってるの?」と聞くと、「そう!」と返され、渋々その場を去る。上手から下手までびっしりと人影が並んでおり、王宮広場のタクシー乗り場が相当混雑していたらしいことがわかる。
ヤツェクがここで一旦タクシーに乗ることを諦めると、下手の二階部分でピョトルの弁護士試験の面接が始まる。その間、ヤツェクは上手の一階部分(先程は映画館の受付だった場所)の前に腰を下ろし、タバコを吸い始めた。
ピョトルは四年間司法修習生として働き、既に事務所でその優秀さを存分に認められていた。ほぼ合格間違いなしの型通りの試験ではあったが、「何故弁護士になりたい?」と問われたピョトルは全力で自分の意見を言う。シアタートークでこの辺りの言動について「正義感は強いけど現実にいたらあまり関わりたくないタイプ」といったようなことを言われていた記憶がある。
「一体、私たちの誰に、誰かを裁く権利があるのでしょうか?」
「誰かがやらねばならない」
「その通りです! 私が裁判官でも検事でもなく、弁護士を目指したのは、弁護士なら、巨大な司法機構が犯す過ちをただすことができるからです。少なくとも努力はできる。弁護士には、そうした社会的機能があると考えています」
「過ちとは?」
「端的に言えば、私は死刑制度に反対しています。誰だって、自分のすることに意味があるのか考える。意味があると信じたい。しかし、時が経つにつれてどんどん疑いが湧いてくる。自分の行動や、意味さえも疑うようになる。基準や、もっと言えば価値すら失ってしまう。かつての私は法を信じていました。しかし今は──」
彼は司法修習生として働く四年間の間に自信を失ったと話していた。この後に語られることとも繋がってくるが、きっと「法」の歪みを認識すればするほど「弁護士」という職業の持つ意義、それを目指す自分に自信が持てなくなっていったのだろう。
そして私がずっと疑問だったのは、このシーンの間ヤツェクが舞台上にいることだった。ピョトルの試験にヤツェクは関係ない。次のシーンの登場にも特別なアクションがあるわけではなく、試験が終わるのと同時に上手から出てくる、というもので構わなかったはずだ。それなのにヤツェクはじっと座ってタバコを吸っている。
呑気なオタクなので最初は「那由他さんの喫煙シーンを長尺で見せてくれるサービスシーンだ!」と思っていた。そんなわけあるか。赤いタバコの箱から一本取り出して、透明な薄緑色のライターで火をつける。前かがみになるような姿勢で右手を首に当てながら吸っていた。光が当たってるわけでもなく、薄暗がりでつまらなそうにタバコをふかしている姿がスレた青年として様になりすぎていてやっぱり円盤が……円盤が欲しいです、先生……。
それはいいとして、何故ヤツェクがいるのか、である。舞台上にいるということは「いる必要があった」のだろう。ということは、ピョトルのセリフにヤツェクと重なる部分があるからではないかと思った。終盤で語られる彼の生い立ちと関わってくるためここで全てを述べるのは難しいのだが、彼は今まで誰にも優しくされることなく、嫌われていた。誰からも存在を肯定されないまま過ごしていくうちに、彼は自分の存在している意味を見失っていったのではないだろうか。
公演前のインタビューで那由他さんが「ヤツェクが抱える自分って何だろう、自分はこの世界に本当に生きているのだろうかというような漠然とした疑問や、未来が見えなくなるような瞬間というのは、僕ぐらいの世代の方には共感していただけるんじゃないかなと思います。」とおっしゃっていた。ヤツェクの場合、自分が否定され続けることによって自身の価値を見失い、自分の中にあったはずの基準(人間として持っておかなければならなかったはずのもの)すら失っていったのかもしれない。彼の殺人に直接的な動機は無いのだろうが、そこに至るまでの心境の変化はこの辺りから推察される。
ヤツェクが舞台上にいたのは、ピョトルの語りの中にヤツェクとリンクするものがあったからではないだろうか。
※那由他さんのインタビュー出典
この後に続くピョトルの刑法の話は、実際に当時のポーランド刑法の問題点を指摘しているものであるらしい。
「一般に、犯罪の予防は刑罰を通じて市民を感化することによって可能になると言われています。つまり、現行法制では、恐怖を抑止力にしているのです。刑法第50条をみれば明らかですが」
「そういう言い方はやめたまえ。皮肉に聞こえる」
「それらの主張が厳罰を正当化するかと言われれば、私は極めて疑わしいと思っています。それに、しばしば不当に刑罰が行われている」
まず、当時のポーランド刑法第50条1項は以下の通りである。
ポーランドの法律家エジイ・ヤシンスキはこの条文に関して以下のように解説している。
続けて、この条文の問題点や最高裁判所の見解の変遷についても述べられているため、そちらも引用する。
ピョトルは冒頭で「しばしば、受刑者への復讐のために刑の執行が行われることがある。犯罪の抑止力としてではなく、受刑者に危害を加えることが目的となることがある。一体、いかなる名において法は復讐を行うのだろうか。無垢なる人々の名において? しかし、法を作っているのは、真に無垢なる人々なのか。そもそも、無垢なる人など存在するのだろうか」と自身の考えを述べている。これも加味すると、ピョトルは「正当な応報」の強調と「社会的効果」に対して疑問を持っていることがわかる。
「正当な応報」を重視する、ということはピョトルの言う「受刑者への復讐」に他ならない。そして、「応報」を定める明確な基準がないために「犯罪者がさらに厳しい処遇を受けるべき」という処罰感情に流されて厳罰化が進み、復讐や危害を加えるために刑の執行が行われる。そういった現状をピョトルは変えたくて弁護士を目指したのだろう。後述するが、ヤツェクの裁判結果も不当な刑罰であった可能性は否定できない。
写真屋~カフェ
ピョトルの面接が終わると、ヤツェクは床にタバコを押し付けて火を消し、左の方に捨てる。そして立ち上がると上手に回り、先程座っていた上手一階部分の側面から中に入る。そこは大きなセットチェンジもなく、映画館から写真屋に変わっていたのだ。
ヤツェクは写真の引き伸ばしを依頼しにやって来たのだが、カバンをガサゴソと探って出てきたのは短い棍棒とロープだった。
「何に使うの?」
「あぁ……」
「解体工事?」
「いや……そう!」
「やっぱり?」
ここで写真屋はヤツェクの顔を一瞬見るものの、すぐに手元の作業に視線を戻してしまう。要はヤツェクがこれらを実際に何に使うかになど興味が無いのである。また、ヤツェクが朝からそれらの道具を持ち歩いてタクシーを探していたことから、確実にタクシー運転手を殺すつもりで行動していたこともわかる。いくら混んでいるとはいえ、一日あればタクシーは捕まるだろうし、タクシー乗り場を聞いて回っていたところからしても、本格的に殺すつもりで動き始めたのは今日なのだろう。
そうしてカバンの奥からヤツェクが小さく折られた写真を取り出し、「この写真を引き伸ばししてほしいんだけど」と言うと、写真屋は一瞥して「折り目は残りますよ」と忠告する。ヤツェクが慌てて明かりに照らして折り目を確認している横で、写真屋は子供の笑い声につられて外を見て笑顔で手を振ったりしていた。
ヤツェクが「いいよ」と写真を渡すと、写真屋は子供たちへの態度とは打って変わって冷淡にヤツェクに預かり証を渡す。そそくさとその場を去ろうとする写真屋にヤツェクが「あの、写真屋は写真を見れば、映ってる人が生きてるか死んでるかわかるって聞いたことがあるんだけど、本当!?」と問いかけても、写真屋は「嘘っぱちですよくだらない!!」と吐き捨ててどこかへ行ってしまう。
ここから、写真屋が明らかにヤツェクを鬱陶しがっていたことが伺える。視界に入れる必要もないと思っていた、とも言えるだろうか。映画館の受付の女性然り、写真屋然り、ヤツェクの顔をまともに見て話してくれる人はいないのだ。一日の出来事であるとはいえ、ヤツェクが少なくとも村を出てからはずっとこうした扱いを受け続けてきたことは想像に難くない。殺人を犯すことに同情はしないが、彼が歪んだのは彼だけの責任ではなかったのだろう。
写真屋を後にしたヤツェクは上手側で舞台奥から手前に歩いてくる。横断歩道を渡っているのだろう。途中で立ち止まって靴ひもを結んでいると、車にやたらクラクションを鳴らされてしまう。写真屋には怒鳴られ、車にはクラクションを鳴らされ、散々な状態でカフェに辿り着く。
カフェの店員は割と客の貴賤に関係なく態度が悪い。この態度の悪い店員の田中亨さんがまた良いのである。トメクの純粋さからは考えられないくらいむすっとして機嫌悪そうにしている。あとウェイトレスの格好がものすごく似合っていた。スタイルがいいんだなぁ。
「注文は?」
「紅茶ください」
「ありません」
「じゃあ何があるの?」
「コーヒーとケーキ」
「へぇ……じゃあ牛乳は?」
「あるけど。牛乳だけ?」
「うん。あっためたやつ。あ、あとケーキ」
「どのケーキ?」
「じゃあ、あれ」
「これ?」
「違う! それ」
基本的に態度が悪いとはいえ、ヤツェクに「牛乳だけ?」と他の注文を催促するようなことを言っておきながら、追加注文のケーキを間違えたりと、ヤツェクを雑に扱っていることが伺える。さらに、ヤツェクが指差しているケーキが一回目と二回目で違うようだったが、店員はそれを特に気にする様子もなく注文メモを取っていた。何を頼もうが興味が無いのだろう。まあ確かに客の食べ物に興味が無いのはわかる。
ここで上手からヴァルデマルが登場する。彼はサンドイッチを取り出すと、野良犬に「食うか? 女房が作ったんだ」と差し出す。
この時点でヤツェクは運転手の存在には気づいていないと思われる。少なくともタクシーの存在には気づいていない。しかし、ヴァルデマルが犬に「食え」と言うのと同時にヤツェクがカップケーキの一口目を食べ始めるのだ。どの公演でも同じタイミングだったため、この演出は意図的なものだろうと考えられる。ヤツェクは野良犬同然の存在、ということだろうか。だからお顔が可愛いのかな。 あとこれは本当にどうでもいいことなのだが、『デカローグ』の世界、犬が多すぎないか? 特に6のトメクが喧嘩を売られるシーンなんかはそこら中からやたらめったら犬の声がする。もはやあの団地に住む条件に「犬を飼っていること」とでも書いてあるのではないかというレベルで犬がいる。いいことだ。犬はいた方がいい。
話を戻す。ヤツェクが食べているケーキは、クリームの上に少しベリー系のシロップがかかったような小さなカップケーキだ。ナイフとフォークがあるにも関わらず、一口目から手づかみで食べ、一旦ナイフで雑に切り分けた後にまた手づかみで食べ始める。これを食べているとき、毎回口に少しクリームがついているのが可愛かった。私が観た公演だと特に1日なんかは最初の方で唇の上のところにクリームがちょこんとついたため、パクパク食べている間ずっと「かわい~……」となっていた。
しかし、すぐにそんなことを言っている場合ではなくなる。ヴァルデマルがカフェに入ってきて、「コーヒー。客待ちしてるから外で飲む」と言うのだ。それを聞いたヤツェクはハッとして後ろを振り向く。「客待ちしてる」ということはタクシーの運転手だ。それに気づくと、彼はクリームだらけだった手をテーブルやズボンで拭き、手で口をごしごしと拭う。残念ながらここで唇の上についていたクリームも拭われてしまった。ヴァルデマルがタクシーに戻ると、彼はカバンからロープを取り出して左手に巻き始める。
ここで、ピョトルの面接結果の発表が挟まる。ピョトルは無事に弁護士試験に合格し、喜びを露にしながら階段を駆け下り、横断歩道に居合わせた写真屋に「弁護士になったんです! 弁護士!!」と言う。写真屋は「あぁ、そう」とにこやかに応じる。先程のヤツェクに見せていたのとは正反対の表情だ。きっちりとスーツを着た弁護士に対して暴言を吐くような輩はいないだろう。このシーンによって逆説的にヤツェクが見下げられていたことが裏付けられる。
慌ただしくカフェに入って来たピョトルは「電話借りてもいいかい!?」と聞きながら既に電話を取っていた。奥さんに弁護士になったことを笑顔で報告し、「何でもできるって感じる瞬間があるだろう!? 全ての道が目の前に開かれているような! それが今だと思うんだ!」と興奮気味に話す。最初ははしゃいでいるピョトルが可愛かったのだが、だんだんとこのセリフが残酷なもののように思えてきた。この時、ヤツェクはもうヴァルデマルを殺害するつもりで準備しているのだ。自分には何もないと感じて、転落していくしか道のないヤツェクがいる場所で発されるセリフとして、これ以上ないくらい酷なものである。
基本的にヤツェクを定点していたせいで酔っぱらいの登場するタイミングがあやふやなのだが、ピョトルの電話が終わった辺りだったような気がする。
酔っぱらいが上手から登場し、ヴァルデマルに「乗せて」と言う。すると、ヤツェクはもし酔っぱらいが乗ってしまえば自分が乗るチャンスがなくなるため、一旦ロープを切る手を止めてヴァルデマルの方を注視する。しかし、酔っぱらいが再度「乗せて」と言っても、ヴァルデマルは無視してコーヒーを飲んでいた。その態度に怒った酔っぱらいはタクシーを蹴りつけて去って行く。ヴァルデマルは「おい!」と背中に声をかけるものの、その場を離れることはしない。
それを見たヤツェクはまたケーキを切っていたナイフでロープを切った。そして準備が終わるだろうということろで、不意に子供の声が聞こえてくる。ハッと顔を上げたヤツェクは子供たちに手を振り、笑顔でこっちにおいで、とジェスチャーをする。彼はロープをカバンの中に隠すと、持っていたナイフで自分の頭を刺すマジック(親指を隠すやつみたいな簡単なもの)を披露し、また笑顔で子供たちを見送った。
この時のヤツェクが本当に可愛い! 劇中で一番目が輝いているときだ。笑顔が可愛くて仕方がない。『12歳。』の作画かと思うほどに目がキラキラと輝いている。初日は普通にファンサタイムかと思って焦ったくらいだ。帰りに思い出しながら頭にナイフを刺すなんて斬新なファンサだなぁとか思っていた。呑気すぎる。本当に可愛くてここでヤツェクしか見ていないから流れがごちゃごちゃになるのだ。いやぁ可愛かった。那由他さんの笑顔が大好きだ。
子供を見送ると途端に表情が暗くなる。現実に引き戻されてしまった、という落胆が見えるようだ。そして、店員の目を盗んでナイフをカバンにしまうと、おつりのコインもしまって席を立つ。
全くの余談だが、牛乳とケーキは15ズウォティだったため日本円に直すと585円程度、コーヒーは7ズウォティで270円程度である。ドトールみたいな価格設定だ。
ヤツェクはロープを巻いた左手を隠しながらヴァルデマルの元へ行く。
「これ、あんたのタクシー?」
「……そうだ」
「モコトゥフまで乗せてってもらえる?」
ヴァルデマルはヤツェクを品定めするように眺めた後、吸っていたタバコを捨てて乗せる準備をする。
このヴァルデマルに話しかけるときのヤツェクの緊張感漂う息遣いと、じっと相手を見つめる目があまりにも好きで、上手側の席の時は毎回吸い込まれるようにまじまじと見ていた。那由他さんの目に感情が見えるお芝居が大好きだ。観に来てよかったと心から思う。まだ中盤なのに。
ただ、何故ヴァルデマルはヤツェクに限って乗せてしまったのだろうか。酔っぱらいはともかくとして、妊婦さんすら乗せなかったというのに、この青年だけ乗せる気になった理由は何であろう。
以下はポーランドのタクシー会社によるタクシーの歴史の解説である。
ヤツェクが王宮広場のタクシー乗り場に行った時、そこには長蛇の列ができていた。当時はタクシーの需要が異様に高く、運転手が好きな客を選んで乗せることができるような状態だったのだろう。ヴァルデマルはヤツェクを乗せる気になったというより、目的地であるモコトゥフに対して何か乗せる意味を見出していたのかもしれない。
ではヤツェクがタクシーを狙った理由は何だろうか。誰もいないようなところへ連れて行くことが容易だから、だろうか。それに車内なら邪魔も入らず、金を盗むこともできる。
ともかく、ここでヤツェクは漸くタクシーに乗ることに成功し、間もなくヴァルデマルを殺害することとなる。
ちなみに、王宮広場付近からモコトゥフまでは大体10km程度であるらしい。また、カフェのシーンの背景は青空だったため、昼の設定だったと考えられる。
殺害
タクシーに乗っていると工事現場に出くわす。交通規制のためか渋滞してなかなか進めないらしい。ここで出てくるのが測量士の姿をした”男”だ。彼はヴァルデマルのタクシーの存在を認めるとゆったりと歩み寄り、ヤツェクのことを凝視する。ヤツェクはその視線から逃れるように”男”に背を向け、手を隠していた。シアタートークで那由他さんが”男”に関して「ヤツェクとしてはなんで見てくんのこの人って思います」とおっしゃっていたが、このシーンを見ると確かにやたらヤツェクを見ているなと思う。全体を通して”男”が視線を向けるのは基本的にヤツェクだけだ。ピョトルを注視することはあまりなかったように記憶している。
そして工事現場を通り過ぎたところで”男”は捌けるのだが、捌ける前に客席を一瞥するのだ。ここが毎回ゾワッとするので好きだった。「しかと運命を見ておくように」とでも言われているようだ。5は一貫して”男”が「運命を見届ける人」ととして描かれているように感じる。6は5よりも生活に溶け込んでいて、「その場に居合わせた人」のような側面が強い感じがした。5は「天使」、6は「男」とも言えるかもしれない。
"男"もいなくなり、いよいよヤツェクがロープを広げて殺そうとしたところで、ヴァルデマルが急に車を止める。またしても子供の声がしたのだ。ヴァルデマルは「たまには親切も必要だろ」と笑顔で子供たちに道を譲った。
ここのヤツェクの表情が大好きだ。車を止めた瞬間は今まさに殺そうとしていたのにタイミングを逸らされて「なんだよ」というような顔をしている。しかし、「たまには親切も必要だろ」と言われると、急に苦しそうな、戸惑ったような表情を見せるのだ。このシーンに関してもシアタートークで那由他さんが「ヤツェク的にはイヤなんですけど。これから殺すのに優しいところ見たくない」とおっしゃっていた。那由他さんの役の解釈とか解像度の高さが本当に大好きだなぁ……と思うし、それがちゃんと伝わってくるお芝居もすごいなぁ……と思う。大好きだ。
子供も通り過ぎると、ヤツェクが「左に曲がって」と言う。ヴァルデマルは「真っすぐ行った方が早い」と返すが、ヤツェクが頑なに「曲がって!」と強い口調で言うため、「わかったよ」と渋々左折する。ヤツェクが「あそこで停めて」と言うと素直に停めてくれるが、「こんなところに一体なんの用が──」と不思議そうに呟いたところで、後ろからいきなりヤツェクがロープで首を絞めにかかった。
ヴァルデマルが必死に抵抗してクラクションを鳴らすと、ヤツェクは焦り、次は棍棒でヴァルデマルを滅多打ちにし始める。下手側からだとヤツェクの表情が見やすく、ここで目を見開いてひたすら殴りつけているのが怖すぎて呆然としていた。『GOOD BOYS』のときもそうだったが、那由他さんのこういうときの我を失っているような、ただ夢中になっている怖さのある表情が好きだ。
殴っている途中で揉み合いになり、ヴァルデマルがヤツェクのお腹のあたりに顔を押し付ける。そして顔を離すとヴァルデマルの顔が血だらけになっている。この仕掛けが何度見てもわからなくてすごいなぁと思っていた。ヤツェクはヴァルデマルが完全に動かなくなるまで殴りつけた後、やっとその惨状に気づいたようにヴァルデマルを眺める。布でヴァルデマルの顔を覆うと河原の方まで運ぶが、実はまだ生きていたヴァルデマルが息も絶え絶えにうわごとを呟き始めてしまう。
「中に……金……入って……女房に……渡して……」
ヴァルデマルがまだ死んでいなかったことに焦ったヤツェクは慌てて石を探し、馬乗りになってさらに殴りつける。ヴァルデマルの頭上の床に石を叩きつけているのだが、バシィン! とすごい音が何度も響き渡るのがまた怖い。いよいよヴァルデマルを殺し終えたヤツェクが立ち上がると、ヴァルデマルの顔を覆っていた布が血だらけになっている。石を置いてから立ち上がるまでの間に布を左右に一回ずつ開いているような仕草が見えたため、布に何か仕掛けがしてあったのだろう。
タクシーに戻ったヤツェクは車内にあった金を盗む。この盗り方がかなり気が動転しているような感じで良かった。
ヴァルデマルを殺害したあとのヤツェクの服に血がついている日があったのも個人的に見どころの一つだった。23日は左ひざに、31日はショルダーバッグの紐に一か所、Tシャツに二か所血がついていた。「本当に殺したんだ……」と感じるため、ヤツェクが振り向いた時に血がついているのを見ると息が詰まった。
そして、あまつさえヤツェクは車内で座ってヴァルデマルのサンドイッチを食べ始めるのだ。このシーンについて仙名彩世さんはシアタートークで「殺したあとにそんなことするの!?」と驚いていた。さらにラジオ? のスイッチを入れて音楽をかけ始めるが、その音楽があまりにも陽気で、いかにもヤツェクを馬鹿にしているようなものだった。彼は苛立ってやはり衝動的に蹴り飛ばす。タクシーとされているものは「TAXI」と書かれた理科室の椅子みたいなものであるため、蹴り飛ばすと結構ちゃんとガタガタと転がっていく。陽気な音楽が突然ガタン! という音と共に消えるため、先程の生々しい殺害シーンの余韻もあって本当に驚いて身が竦んでしまう。この蹴り飛ばすところも、少し足がピクピクと動いてから勢い任せに蹴っているところが好きだった。
目を見開いて荒い息をしたヤツェクが恐る恐るといったようにタクシーのエンジンをかけたところで舞台は暗転する。最後、客席を見つめていたヤツェクの後戻りできないような、何かが抜け落ちてしまったような呆然とした表情が忘れられない。
裁判~護送車
暗転している間、上手側に椅子が二つ並べられ、そこにヤツェクと看守が座って待機していた。ヤツェク(というか那由他さん)はそこでバッグをスタッフさんに預け、手錠をかけられる。私はあまりにも物覚えが悪いため、最初は「なんか渡してるけど何渡してるんだ……?」と疑問に思い、何度注目してもわからず、31日の公演で漸く「バッグがなくなってる!?」と気づいた。今まで何を見ていたんだ。
それはさておき、裁判のシーンはほとんどなく、ガベルの音と共に舞台が明るくなり、ヤツェクは看守と共に上手に捌けてしまう。
失意のまま法服を引きずり歩くピョトルは裁判長を見かけると「よろしいですか」と声をかける。下手一階のスペースに入り、ピョトルは「私のような新米ではなく、もっと経験を積んだ弁護士が担当していれば」と後悔を滲ませる。しかし、裁判長は「誰が担当しても同じ結果になったでしょう」と即答し、「死刑に反対する最近の弁論の中で、あなたのものは突出して優れていました。あなたの言ったことは法律家としても、人間としても間違っていません。決して」と付け加えた。
さらに、ピョトルは「被告が、ヤツェクが、カフェで右手にロープを巻いて準備していた話を覚えておいでですか」と尋ねる(ヤツェクが実際にロープを巻いていたのは左手だと思う)。
「あの日、僕もいたんです」
「どこに?」
「あのカフェに。同じ時間に。去年、弁護士試験に合格した日に」
「……それが」
「何かっ」
「何かできたはずだと? ……バリツキさん、あなたは少し繊細過ぎる。この仕事には向かないかもしれない」
「……もう遅いですよ」
後でわかるのだが、裁判の日は1987年3月16日である。殺害の日が冬だったことと、ピョトルが「去年」と言ったことから、1986年の1,2月、または12月頃に弁護士試験に合格したのではないかと考えられる。裁判について詳しくないため、裁判にどれくらいの期間を要したのかがわからないのがもどかしい。日本では逮捕から二、三か月程度とされているそうだが、1986,7年のポーランドではわからないし、もしかしたら長引いて一年程かかっていたかもしれない。どちらにせよ、ピョトルの弁護士試験合格と事件発生日が同じであることから、ピョトルが初めて担当した事件、被告人だったのではないだろうか。ピョトルの死刑反対の弁論が優秀だったことと、「誰が担当しても同じ結果になった」ということを考えると、ピョトルは優秀さが見込まれて担当につけられたのだと思われる。これがもし負け戦だから新米にやらせた、とかであればやるせない。
ピョトルは裁判長の元を去ると、下手二階部分で奥さんに電話をかける。ここで奥さんの体調を気遣っているのは妊娠二か月程だったからだろう。
そして二階の中央の階段を下りようとしたところで、看守たちに両腕を掴まれて護送車に運ばれるヤツェクが上手から出てくるのを見つけると「ヤツェク!」と叫ぶ。ここでヤツェクがハッとして振り向くものの、言葉を交わすことはない。しかし、数歩歩いたところでヤツェクがまたピョトルの方を振り向くが、そのときにはピョトルは階段を下りていて、結局ヤツェクは黙って護送車に運ばれて行くのだった。
絞首台の準備~ピョトルと検事
ヤツェクが下手に捌けると暗転し、上手一階が檻になったり、上手二階に絞首台が登場したりする。”男”はじっとその様子を眺め、二階に上がると階段の踊り場に脚立を設置する。
やがて検事が登場し、上手二階に垂らされたロープの輪の長さを調節した後、一階に下りてガラガラとロープ全体の長さを調節する。淡々とヤツェクの長さに合わせられていると考えると見ていて胸が締め付けらえるシーンだ。
この作業は公式ドロップテーブル的なものに則っている、ということなのだろうか。どうやら死刑を採用している国には絞首刑を執行される者の身長や体重に合わせてロープの長さを調節するマニュアルがあったらしい。参考にアメリカ議会図書館のデジタルコレクションで読める「軍事処刑の手続き」のリンクを貼っておく。
検事が作業を終えると、下手からヤツェクが出てきて上手一階の檻の中で上手を向いて座る。その様子を下手一階から”男”が眺めており、上手から差し込む光によってヤツェクと”男”が一直線上に照らされる。このすべてを見透かしたような”男”の眼差しがすごく良い。否が応でも”男”の見ている方に視線が向いてしまう感じが(そんなことを言ってられるシーンではないにしろ)楽しかった。演出に脳内を支配されるのは劇場でないと味わえない感覚だと思う。
続いて下手二階にピョトルが入り、執行命令書を読む。この執行命令書は中身まで色々と書いてあり、作り込みが細かかったように見えた。
その後、ピョトルは一階のドア付近で検事と出くわす。
「お互い、つらい仕事ですな」
「全くです。……初めてなんです」
「これが最後になるといいのですが」
「……」
ピョトルの「初めてなんです」は、会話の中では「弁護した相手が死刑になること」という意味で通じている。しかし、前述の理由から「弁護すること」自体が初めてだった、とも取れるのではないだろうか。
ピョトルはたらればの話とはいえ、同じ時間、同じ場所にいたカフェでヤツェクに何もできなかった。そして、あれだけ死刑反対を掲げておきながらヤツェクの死刑判決を覆すこともできなかった。冒頭で述べたが、ピョトルはヤツェクに対して何もできていない。元々司法修習生として過ごすうちに自信を失くしていた部分があったのに、初めて自分が弁護した相手が死刑になってしまったとなれば、相当なダメージを受けているだろう。彼がこの先弁護士を続けていけるのか、少し不安である。
検事は一度階段を上りかけてから戻ってきて、「こんなときになんですが、お会いする機会もそう多くないと思うので。お子さんがお生まれになったそうですね」とピョトルに語りかける。ピョトルが「ええ。一昨日、息子が」と返すと、「おめでとう」と肩を叩いてその場を去る。ピョトルは人生単位で見ればかなり順風満帆だ。エリートと呼ばれるに相応しく、ヤツェクとは正反対な人物像である。しかし、彼はきっと心の内で挫折している。弁護士試験に合格した日に感じていた万能感があっけなく、一番苦しい形で消失したことを思うと、ピョトルが最後までヤツェクの話を聞いていたのは「優しさ」もそうだが、「責任感」によるものも大きかったように感じられる。
ピョトルとヤツェクの面会
この辺りからは頭の中がほぼ「ああ、ヤツェク……」で埋め尽くされており、セリフや流れの順番が一層ごちゃごちゃになっている。ユゴーもびっくりだ。
檻からヤツェクが出てくると、ピョトルは彼と握手を交わす。
「母には会いに行ってくれましたか?」
「ああ」
「泣いてました?」
(静かに頷く)
「先生に何か言ったと思うんですけど、伝言か何か」
「いや、特に何も。ただ、泣いてた」
ヤツェクは人生最後の日に母からの言葉を貰えなかった。独りぼっちなのだ。彼は村を出ざるを得なくなってからずっと独りで過ごしていた。自業自得の面は大いにあるとはいえ、どこかで優しい人と、それこそカフェでピョトルと話したりしていればなぁなんて肩入れしたくなってしまう部分もある。二週間もヤツェクを定点していたせいで庇護欲が出てきたのだろうか。
舞台中央に置かれた丸椅子に腰かけながら、ヤツェクはピョトルに話を始める。
「先生は、僕が裁判所から護送車に運ばれるとき、名前を呼んでくれた。……泣きそうになった」
「裁判中もずっと呼んでたじゃないか」
「あの時思ったんです。先生は敵じゃないって。……僕、今二十歳です。あと四ヶ月で二十一になる」
「そうだね」
「今まで、名前を呼ばれるときはいつもみんなが、ここでもそうだ、みんなが僕の敵だった。みんなが僕を嫌ってる!」
「君じゃない。君のしたことを」
「何が違うのかわからない!!」
自分のした行為はどうしても自分と切り離すことはできない。それは当たり前だ。しかし、このピョトルのセリフは面白いと思った。法が罰しているのは罪だ。その人が犯した罪に対しての罰であり、その人自身の存在を罰したりしているのではない。「罪を憎んで人を憎まず」などと言うが、ピョトルの考え方はこういうことなのだろう。しかし、実際には周囲から「あの人はあんなことをしでかした」と忌避感を抱かれ、社会(コミュニティ)から疎外されることが多い。自分の行為は自分自身の一部として認識され、存在そのものを敬遠されるのだ。さらに、ヤツェクは犯した罪に対する罰として、今まさに法によってこの世から疎外されようとしているのである。これでは自分自身の存在と行為の間に違いなんて見出せなくて当然だ。
ここの「何が違うのかわからない!!」と叫ぶように言うところは千穐楽の公演がかなり好きだった。後半に向かって声量が大きくなり、叩きつけるように言い放つ感じが本当に良かった。
そして、ヤツェクはピョトルにもう一度母に会いに行ってほしいと頼み込む。
「もう一度母に会ってもらえませんか。伝えてほしいことがあるんです」
「わかった。必ず会いに行くよ。会って、何を伝えればいい?」
「僕を、父と妹の隣に埋めてくれるよう、頼んでください。埋葬は許されてますよね!?」
「ああ、許されてる」
「神父様がそうおっしゃってた。本当は母のために空いている場所なんですけど、譲ってくれるよう、母に頼んでほしいんです」
この「埋葬は許されてますよね!? 神父様がそうおっしゃってた」の必死さがすごく好きだった。きっと彼にとって一番と言っていいほど大事なことなのだろう。
しかし、ヤツェクが話し始めてまだ少ししか経っていないというのに部屋の電話が鳴り、所長から伝言を預かった看守長が「もういいか」と尋ねてくる。それに対してピョトルは「まだだ」と答え、ヤツェクに「話して、何でも聞くから」と優しく語りかける。
電話が鳴った時にヤツェクがひどく怯えて頭を抱え、顔を覆うのがまた良かった。執行時間が迫っていることに怯えているのだろう。しかし、ピョトルの言葉に徐に顔を上げると、呆然としつつも「何の話でしたっけ……」と聞く。ここで明らかに先程よりもやつれた顔になっているのが本当にすごい。目の焦点があまり定まっていないような怖さすらある。この辺りで毎回「福崎那由他さん、俳優でいてくれてありがとう……」となってしまって胸が詰まっていた。
ピョトルが「お墓の話。三人分あるって」と助け船を出すと、ヤツェクは「父と、マリーシャと、もう一人分空きがあって……」と訥々と続きを話し始める。マリーシャとはヤツェクの妹であり、ここから語られる話がヤツェクの人生に大きな影響を与えたものであった。
「妹は五年前、トラクターに轢かれて死んだんです。小学六年生になったばかりで、十二歳だった。まだ六年生だった。友達が運転したトラクターで、妹を轢いた。……飲んでたんです。僕も一緒に。ウォッカやワインを家から盗んで飲んでた。それで、友達が酔っぱらってトラクターを運転して、マリーシャを轢いた。僕たちの住む村の、森の外れで」
五年前ということは1982年だ。そして、ピョトルが1986年の時点で「四年間の司法修習を終えた」ということは、ピョトルが大学を卒業して司法修習生になったのも1982年なのではないだろうか。ピョトルが弁護士になる夢に向かって踏み出したのと同時期にヤツェクは人生で一番つらい出来事に直面していた。二人の反対の意味での人生の転換期が重なっているというのも考えてしまうところだ。事件の日もそうだ。ヤツェクが殺人を犯すまでに追い込まれているとき、ピョトルは弁護士試験に合格して踊るように過ごしていた。そんな相容れないように見えるピョトルに対して、誰からも嫌われ続けていた(と感じていた)ヤツェクが「敵じゃない」と言ったことを考えると泣いてしまう。村を出てからの彼に一人でも自分のことを見て向き合ってくれる人がいたら、と思わざるを得ない。
また、一緒にいたにも関わらず妹を救うことができなかったヤツェクは、ヤツェクを救うことができなかったピョトルと重なる。二人は正反対に見えて、抱えている後悔は似たものであるのかもしれない。
マリーシャが亡くなった後、家族は全員でお金を出し合って彼女の好きだった場所にお墓を立てたそうだ。ヤツェクはその場所について「牧草地があって、森を抜けると、草や土の匂いが風に乗って渡ってきて、すごく静かで、春になると、そこら中からマダラヒタキの鳴き声が聞こえてきて……ちょうど、僕の誕生日の頃に」と語る。確かマリーシャが亡くなったときのことを話しているシーンでヤツェクの後ろに草の揺れる映像が映されていたはずだ。それが彼の原風景なのだろう。
「ここに来てから、ずっと考えてた」
「何を?」
「あのことが起きなければ、僕はここにはいなかったかもしれない。あのことがあって、僕は村を出て……出たくはなかったけど、出なくちゃいけなかった! あのことがなければ、こんなことにはならなかった」
「そうだね。きっと事件は起こらなかった」
「僕は、こんなところにはいないはずだった」
再度電話が鳴り、ヤツェクはまた怯える。看守長が淡々と「所長がもういいかとお尋ねです」と言うと、ピョトルは立ち上がって「僕の方からは絶対にもういいとは言わない!」と激昂する。そしてヤツェクに「さあ話して」と促す。ヤツェクは震えながらも顔を上げ、家族の話を続けた。ここで表情がさらに憔悴しているのが本当にすごい。あの短時間で一気に老け込んだかのようだ。この辺りからはもはや息をするのも忘れて呆然と舞台を観ていた。
「僕には兄が四人いますけど、女の子はあの子だけで、六人目にやっと生まれた女の子だった。マリーシャは僕のことを好きだったし、僕もマリーシャのことが大好きだった。だけど、あのことが起きて……それから父も死んで、父は、マリーシャが死んでから死んだように生きてた。それで……本当に……」
そう語っている途中で検事たちの足音が聞こえてくる。それに気づいたヤツェクが焦りつつ「お墓は三人分あるんです! だから!」とピョトルに訴えかけると同時に看守長の「面会は終了です!」という言葉が無慈悲に響く。ここのヤツェクの絶望したような表情に毎回胸が苦しくなった。そしてピョトルが立つとつられて立って胸ポケットをあさり、写真屋でもらった預かり証をピョトルに渡す。この一連の流れの間、というか話している間もずっとだったが、全身がガタガタと震えていて、極限状態にあることがありありと伝わってくることにただただ感嘆していた。すごい……としか言いようがない。あぁ、お芝居見るのって楽しい……。
「これは?」
「預かり証です、写真屋の。マリーシャの聖体拝領式のときの写真を引き伸ばすよう頼んだんですけど、受け取りに行けなかった!」
「わかった、受け取っておく」
「それを母に渡してください。元の写真は預けてしまって、そっちは折り目がついてて!」
「終わりだ!」
看守長に引っ張られたヤツェクはピョトルの方を振り向くと、「先生、死にたくない……」と呟く。ここが本当に良い! 「先生」と呼びかけたあとの一瞬で劇場内の静かな緊張感が一瞬増すように感じるのだが、その後に絞り出すように「死にたくない」と零されるのがあまりにも綺麗で毎回驚いて息をのんでいた。表情もとても、とても綺麗だった……。この胸を搔き乱される苦しさを色んな人に味わってほしい。ちなみに冒頭に貼ったリンクから見れる舞台写真の十枚目がこのシーンの写真である。写真で見ても十分綺麗ではあるが、舞台の流れの中で見たときの美しさは何物にも代えがたいな、と思ったりもする。また観たい……。
ヤツェクのセリフに出てきた「聖体拝領式」は、カトリック教において自分の意志でカトリック教徒になる儀式のことであるらしい。八歳前後に行われることが多く、女の子は白いドレスを着たりするそうだ。確かにマリーシャの写真は白いドレスに身を包んだものであった。マリーシャの生前の可愛らしい写真をずっと持ち歩いていたヤツェクを想うと寂しくなる。マリーシャのことが本当に大好きだったんだろうな……。
聖体拝領式については以下のサイトで解説されている。
執行命令書の読み上げ
ピョトルとヤツェクの面会が強制的に終了させられると、ヤツェクは檻の前で医師に状態を確認される。この時点でヤツェクは目が虚ろになってきている。
次に神父が額に十字を刻み、ヤツェクが神父の手の甲にキスをして赦しを与えられるのだが、この神父役がヴァルデマルと同じ寺十さんなのが面白い。殺された人物と同じ顔をした神父が赦しを与えているのだ。シアタートークによるとこの配役は敢えてのことらしい。しかし、ヤツェクが神父に取りすがるように腕を掴もうとすると、神父はサッと身を引いてしまう。これが「神は赦しても人間は赦さない」と言っているようで良いな、と思った。
ヤツェクは両脇を抱えられて二階に連れていかれる。そこで刑務所長が容赦なく執行命令書を読み上げていく。
「姓と名前を」
「ワザル・ヤツェク……」
「生年月日は」
「1967年……3月、17日……」
「両親の名は」
「ヤンと……う、ウーツィア……」
「判決文。ヴァルデマル・リコフスキに対する強盗殺人容疑でワザル・ヤツェクを審議した結果、ワルシャワ地方裁判所は1987年3月16日に当該容疑で被告人を有罪と認め、刑法第148条第1項及び第44条2項に基づき、被告人を死刑に処し、公民権を剥奪する旨を宣告した。最高裁判所は被告人の上告を棄却、ワルシャワ評議会は恩赦の請願を却下した! よって、1987年11月27日、死刑を執行する」
ポーランド刑法第148条第1項と第44条第2項、及びその参考として第38条第1項から第4項を引用する。
第148条は所謂殺人罪である。ただ、ヤツェクが死刑を科されたことに関しては若干の疑問が残っていた。殺人は重大な罪であるとはいえ、一人で死刑になるだろうか。ここに「死刑制度への疑問」が生じてくるように思える。
前述の通りポーランドは最高裁判所が刑の裁量を明文化しておらず、応報と処罰感情によって刑が決定される可能性をはらんでいた。そのため、ヤツェクが死刑になる、ということが制度的にあり得ない話ではなかったのではないだろうか。そんなふわふわとした基準によって死刑が科されてもいいのか、という問いかけと同時に、法に則っていれば人を殺してもいいのか、という人道的な問いも発しているように見える。
ヤツェクが最後に語った妹の話からは、彼が根っからの悪人ではないことが伝わってくる。人を殺しておいて何を言い出すのか、と思う気持も無くはない。ただ、那由他さんがシアタートークでヴァルデマルが子供に道を譲るシーンについて話していた「電車に暴言吐きながら乗ってくる人にもこういうところあるのかな、とか、色んな人に色んな人生があるんだって思う」というのはこの作品の本質でもあると思う。ヴァルデマルにもヴァルデマルの人生があったように、ヤツェクにもヤツェクの人生があった。では、どんな手段であれその人生を奪っていいものだろうか。
例えばヤツェクが二人、三人と殺していたとする。そうなれば、(特に死刑制度の残っている日本にいることもあり)死刑になっても致し方ないと感じてしまうだろう。いくら制度的な問題があるとはいえ、それでは共感性が低い。一人であることによって、この作品が伝えたかった「疑問」が浮き彫りになるのではないだろうか。
もちろん、どんな過去があったにせよ人を殺したことは絶対に許せない、という感情もあるだろう。しかし、それは「応報」に重点を置きすぎている思考かもしれない。処罰感情に任せた求刑は、ピョトルの言ったような「危害を加えるための刑罰」になりかねないだろう。
冒頭で描かれてからずっと舞台の下手二階で存在感を放っている十字架が嫌というほど目に入る。この作品でヤツェクは法の犠牲になったのだ。
ちなみに、ヤツェクが二十歳になったのは1987年3月17日であるため、有罪判決が出たのはかろうじて十九歳時点のことである。もし殺人を犯したのが1986年の3月以前だった場合は18歳のときの犯罪、ということになる。日本だと少年法(現在は特定少年)の範囲だが、この点については刑法第9条第1項及び第31条に記載がある。
つまり、十八歳以上は死刑を含めて全ての罰則がそのまま適用される、ということである。
また、「上告を棄却」とあるため、当初は控訴が通ったのかと思っていたが、どうやらポーランドの上訴は「上告」と「抗告」の二種類であり、上告が日本で言うところの控訴にあたるようである。
上告が通らなかったことにはピョトルも相当なやるせなさを感じていたはずだ。判決から執行までの八か月間、ピョトルはどんな気持ちで弁護士を続けていたのだろう。
執行
執行命令書が読み上げられると、刑務所長が「タバコだ。お前には吸う権利がある」とヤツェクにタバコを差し出す。ヤツェクは「フィルターの無いやつがいい!」と言い、執行官がフィルターの無いものを取り出し、刑務所長に渡した。
ここでヤツェクが必死にタバコを吸っているのが本当に……現世に縋りついているみたいで苦しかった……。この間は舞台上が静かになるため、より緊張感が増していく気がしていた。そして、タバコを吸い終えるとヤツェクが「いやだ……」と呟き、「やだ! やぁだ!!」と暴れ始める。執行官たちはそんなヤツェクを引っ張って執行室に連れて行く。
叫んで暴れ続けるヤツェクに容赦なく目隠しがされ、「巻け! もっと巻け!」と命令がなされると、「執行!!」の声と共にガシャン! ととんでもない音が響き渡る。すると、先程まで大声が飛び交っていたのが噓のように劇場全体が静まり返り、下手一階から脚立を片付けてヤツェクを見上げる”男”と、吊るされて動かなくなったヤツェクだけが照らされる。この演出が怖くて大好きだった。この事実から目を逸らすな、と言われているようである。そして”男”はゆっくりと舞台上を後にする。”男”がずっと見続けていたヤツェクの「運命」の終わり。本当に大好きな演出だ……。
ヤツェクの叫びは「ガシャン!」という音と共にピタッと止まるのだが、そのタイミングが毎回違って全て怖くて良かった。例えば25日は「や、」と言いかけたところ、30日は「やぁだ、」と言ったところで急に言葉が切れた。その一瞬前まで生きていた人が突然死んでしまう感じが怖かった。また、26日は目隠しが一度外れてしまったため付け直しており、その間もヤツェクは叫び続けていたため、後半になるにつれて「あ”ぁ”!」と全力の叫び声に変っていっていたのがまた良かった……。しかもそれだけ叫び続けたのに、最後は台の下が開く音と同時に「あぅ、」と小さな呻き声を発しただけであり、急に首が絞まった感じが怖かった。後ろに服を吊っている紐が別にあるのも見えているのに、毎回喉の奥がヒュッとなってしまうような恐怖を感じる。さらに、23日は”男”とヤツェクだけが照らされている間にヤツェクが上手側にぷらーんと半回転くらいしてまた正面に戻っており、そのおもちゃのような単調な動きが「動かぬもの」になってしまったようで余計に怖かった。
個人的には千穐楽が一番ヤツェクの叫びが刺さってしまって苦しかった。毎回思っていたことだけど、那由他さんの演技が大好きだなぁ……。
”男”が去ると、下手側に立っているピョトルを残して舞台が暗転し、サッと執行室のカーテンが閉められる。そしてピョトルは上手側に移動し、マリーシャの写真が入っているのであろう大きな封筒を手に取って膝を突いて声も無く慟哭する。このとき背景には牧草地が映っており、マダラヒタキであろう鳥の鳴き声も聞こえていたため、彼がいたのはマリーシャのお墓の前だったと考えられる。ヤツェクもそこに埋めてもらえていたら……と思ってしまうが、そんな優しさのある作品ではないような気がする。ピョトルがヤツェクの頼み通りにお母さんに埋葬のお願いをして断られていたとしたら、ピョトルは本当にヤツェクに何もできなかったということになる。ピョトルはずっとヤツェクを救えていない。ヤツェクの弁護は、彼にとって死刑判決以外にも本当に苦しい出来事だったろうと思う……。
ピョトルが苦し気に天を仰いだところで舞台が完全に暗転し、「ある殺人に関する物語」は幕を閉じる。
終わった後に役者さんたちが出てきて礼をする際、拍手をしたいと思うのに震えて手が上手く動かないことが多々あった。本当に素晴らしい舞台でした。ありがとうございました。
最後に、ポーランドの刑法は1997年に改正された際に死刑が廃止された。現行のポーランド刑法のリンクを以下に貼っておく。
USTAWA z dnia 6 czerwca 1997 r. Kodeks karny (法律 1997年6月6日 刑法)
余談
どう見ても「余談」の文字サイズではない。
ふせったーにあげた22日のシアタートークの簡易的なレポを置いておく。
新国立劇場の公式さんのツイートで一番頭を抱えたのは確実にこの投稿である。
「日々舞台を見守っています✨」の文面に泣いてしまった。ヤツェクを……見守っているんですか……? これに気付いたのが1日の公演が終わった後だったため、2日は千穐楽だし楽屋ではマダラヒタキが見守っているし、とそわそわしながら観ていた。千穐楽が終わってしまい、「もうヤツェクが生きているところを観ることはできない」ということが意味するところの重さに泣きながら帰った。最後の姿もマダラヒタキは見守ってくれていたんだな……。
『The Atre 4月号』に載っているインタビューで那由他さんが「ヤツェクを生きられるよう、しっかりと準備をして稽古に臨み、皆様の前に立ってみせます。劇場にてお待ちしております。」とおっしゃっていたのがかっこよすぎて、上演前に客席で読んでいて「かっこい~……」と声に出してしまった。那由他さんのこういうところが大好きだなと思う。そして自分で課したこのハードルを越えるものを見せてくれるのもすごい……。俳優でいてくれてありがとうございます、本当に……。
『The Atre 4月号』は新国立劇場のメインボックスオフィスにてまだ購入できるはずだ。那由他さん、渋谷さん、寺十さん、仙名さん、亨さん、亀田さんのインタビューが載っている。
私はメインボックスオフィスがどこかわからずに迷子になったのだが、京王線初台駅から直通で入れる小劇場はB1階らしい。小劇場のチケットを見せる場所の手前で右奥に行くと階段があり、そこから上るとボックスオフィスに辿り着けた。ずっと小劇場が1階だと思っていた……。
ちなみに一冊300円である。300円!? 安すぎる。
『最高の教師』のメンバーが観に来てくれていたのもすごく嬉しかった。仲が良さそうで何よりだ。
萩原護くんと浅野竣哉さんは那由他さんが友達としてよく名前を挙げているが、加藤清史郎くんまで観に来てくれていたのには驚いた。那由他さんの名前を見つけて足を運んでくださったなんて、義理堅い方だなぁ……。
『最高の教師』はHuluにて全話配信中! 那由他さんと護くん演じる工学研究会の二人がメインの回は第3話である🤖
5月18日から6月2日まで、福崎那由他さんのお芝居が大好きだな~! と改めて思った期間だった。この舞台を観ることができて本当に良かった! と心から思う。
14公演お疲れさまでした。そしてありがとうございました!👏