塩不足を尻目に、最後まで軍需品は製造ー止まらぬ戦争の歯車
こちらは、長野市の善光寺に近い食料品店に残っていた木箱です。側面に「30瓦 携帯味噌 600人分」「600袋」「20年7月」とあり、別の面には「携帯味噌」「一八キロ」とあります。
大きさは長辺55センチ、短辺28・5センチ、高さ30・5センチ。内部には湿気を防ぐためか、ブリキの内箱を仕込んであります。蓋は入手できませんでしたが、おそらくは同様にブリキを張って湿気から守り、密閉できるようにしてあったのでしょう。
30グラムの携帯味噌とはどんなものか。「帝国陸軍 戦場の衣食住(学習研究社)」には「携帯粉味噌」と称し、30グラムが1食分で、生みそを乾燥させて粉末状にしたものと、乾燥させた具として、焼き麩、わかめが防水紙の袋に入ったものとあり、水や湯で溶いて食べるインスタント食品であったとしています。
箱に記載された呼称は違いますが、袋入りで30グラムとあり、木箱のサイズから「粉」の文字を省略した焼き印にしたと推定できます。18キロとあるのは、30グラムの袋が600あることから、内容品の重量と分かります。年号は昭和で、1945(昭和20)年7月の梱包でしょう。
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では、この木箱がなぜその食料品店にあったか、どこから来たのかを調べてみます。1945年4月1日、本土決戦に備えて全国の師団が14の師管区に分けられ、長野市には長野県と新潟県を管轄する長野師管区の司令部が置かれることになり、善光寺にも近い長野高等女学校(現・長野西高校)に設けられます。(信州昭和史の空白・信濃毎日新聞社)このとき、生徒たちは「私たちの学校を壊さないで下さい」と申し入れたと言われています。
とすれば、司令部に食糧が備蓄されるのは普通となります。とはいえ、部隊の移動や輸送のひっ迫、生産の状況から、人も物資も順次入ったとみられ、この木箱も敗戦間際の時期に運び込まれたのでしょう。そして敗戦を迎え、近くの食料品店が払下げを受けたのではないかと思われます。
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ところで、このころの日本はあらゆる物資が欠乏してきていました。塩も不足してきた品の一つで、長野県丸子町の1945年4月の常会徹底事項には、自家用醤油と漬物用の塩の配給(有料)を停止するとありました。
「自家用醤油及漬物用塩配給停止の件」との項目で、1945年度の自家用醤油の塩は「全然配給せず」とあり、漬物用の塩は梅漬け用以外は夏季も秋季も配給をしないので「今から工夫を凝らし、使い伸ばしに努力すること」と指示しています。
一方、味噌用の塩については「今後順調に進捗の場合には、大体4月末より5月中に配給せらる見込み」とし、この段階で心細い限りです。その後の所蔵している常会徹底事項には出てこないので、何とかなったのでしょうか。
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こんな綱渡り状態の中で軍需物資の携帯味噌が製造され、納められていたことを示すこの木箱は、本土決戦に向かって民需を絞り、とにかく戦争を続行しようとしていた日本の生き証人と思えてなりません。