見出し画像

用済みの入営祝いの幟、布も貴重な中ではリサイクルすることもままありました

 戦前、大日本帝国憲法には徴兵の義務がありましたから、平時には成人男子が徴兵検査を受け、体格優秀なものからくじ引きで入営者を決定し、2年間の兵営生活を課していました。もっとも、軍隊での出世を願う者であれば、教導学校へ入校して下士官となるなど、現役を続けることは可能でした。これが常備の軍隊となるわけです。

 さて、入営や戦時の臨時召集による出征時には、日中戦争の初めごろまでは、たくさんの祝いの幟を立てて見送っていました。4メートルを超える大きなものから、1メートルほどの小型のものまで、さまざまでした。

小諸町の男性が入営を祝って贈った幟。左手には市販の小型のものがあります。
川中島町(現・長野市)の男性の出征時に贈られた書家による幟

 見るからに立派な布で、たいていは入営や出征が決まってから出発まで庭先に掲げておき、出発が終わったら取り込むのが主流でした。このほか、幟を一本だけにして、その代わりに帰って来るまで表に出したままにしておいたり、神社に奉納したり、いろいろな対応がありました。

 取り込んだ幟は、大事にとっておく家がある一方、割り切って布製品にリサイクルする例もありました。今回、長野県諏訪市から出た、そんなリサイクル品を入手しました。

入営祝いの幟のリサイクル品

 一本の幟を中央で切って、方向を逆にして一枚の布に縫い合わせてあります。縦164センチ、横129センチですから、元の幟は長さ3・3メートル、幅66センチほどの大きなものだったようです。

上側
下側

 同様のリサイクル品を見ると、いずれも逆にする例が多いです。今回、実物を手にして初めて理解できました。断ち切った側をまとめてかがって補強し、ほつれないようにするためでした。

切断側で折ってかがってありました

 風呂敷ということで入手しましたが、布自体の強度は、この大きさに見合うものを包んだら破れそうな雰囲気がありました。しばったりした跡も特に見当たらないので、別の用途にしたと思われます。何かをカバーしていたか、窓のそばにカーテン代わりに下げて防寒用にしたか、あるいは保存状態が悪くないことから、使い道がなく、とりあえずとっておいたか。こればかりは分かりません。
 まあ、こちらの幟は入営祝いの幟なので、特に前線に出る人を送ったわけでもないことから、比較的気軽にこうした加工ができたのでしょう。

 書かれた文字を見ますと、名前に加え「第五師団 電信第二連隊 諏訪」とありました。通常は送った人や団体の名が書かれているものですが、これは入営部隊を書いたもので、「諏訪」は出征する人の出自として書き加えたものと思います。とすると、身内で用意したものかもしれません。
 ちなみに、第五師団電信第二連隊は陸軍の部隊で、広島県にありました。徴兵検査では所属したい兵科を記入することになっているので、本人が希望したのでしょう。もちろん、希望がすべて通るわけではありませんが、もしかすると工業系の中等学校を卒業して、専門を生かしたいと希望したのかもしれませんね。
 下写真は、1934年に入営する方たちのための長野市での壮行会の資料です。地元の松本市にあった歩兵第50連隊に限らず、多岐にわたっているのが分かります。希望に加え、部隊側からの要望も織り交ぜてのことだったと思います。ちなみに、体格の特に良い方は砲兵隊に回されることが多かったとか。祖父は大工の棟梁だったため、工兵隊に所属していました。

長野市の入営兵士壮行会で配られた資料
電信連隊はありませんが、騎兵、砲兵、鉄道などさまざまです

 ただ、日中戦争も泥沼化し、物資も不足するに及んでこうした幟は防諜の狙いもあって、公的な団体から1本出るかどうかという程度になっていきます。そして、太平洋戦争に入ってからの衣料切符導入後は、切符なしで買えたのは慰問袋だけになっていたため、慰問袋を継ぎ合わせて日よけにしていたといった話も残っています。
 このリサイクル品の元の幟で送り出された方は、どんな時期を過ごされたのでしょうか。無事に戦争の時代を生き抜かれたことを祈るばかりです。

関連記事
 入営や出征は幟で鼓舞ー使用後はリサイクルや廃止も
 達筆な方は戦時下にも大活躍

いいなと思ったら応援しよう!

信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
ここまで記事を読んでいただき、感謝します。責任を持って、正しい情報の提供を続けていきます。あなた様からサポートをしていただけますと、さらにこの発信を充実し、出版なども継続できます。よろしくお願いいたします。