戦時下には、ペットを飼う自由もなく
この写真は、長野県小県郡丸子町(現・上田市)の大政翼賛会丸子町支部が1945(昭和20)年2月に発行した「二月ノ常会徹底事項」の一部です。「七.犬原皮増産並二狂犬病根絶二関スル件」と題し「犬皮ノ軍需品トシテノ重要性ト狂犬病根絶、空襲時ニオケル咬傷等ノ危険除去ノ為メ、野犬掃討、畜犬供出(供出犬ハ一定標準ニヨリ買上ゲ)ヲ実施致シマス。期日、場所等ハ追ッテ通知致シマスガ、各位ノ徹底セル御協力ヲ希望致シマス」とあります。各家庭で飼っている犬を全部差し出せ、犬は殺処分して皮を戦争に役立てる、一定金額で買い上げる―ということを述べています。おそらく飛行服の増産にと考えたのでしょう。
こちらは、同年3月の丸子町常会徹底事項の一部です。「畜犬供出ニ関スル件」と題し「軍需毛皮ノ増産ト又、犬ノ体内ヨリ軍需貴重医薬ヲ抽出スルタメ、今回畜犬野犬ノ全面供出ヲ行フ事トナレリ。既ニ登録飼養犬二就テハ夫々供出届書ノ提出ヲ願イタルモ更ニ未届犬(鑑札無キモノ、野犬)ニ就テモ全部供出願度。猶(なお)当町供出日ハ左記ノ通リ決定シタルニヨリ各飼主ハ時間内ニ指定ノ場所マデ引イテ行キ、郡ヨリ出張シタル係員ニ引渡ス事」としています。そして、軍用犬と狩猟犬は除くこと、日時は3月11日午前10時から午後1時まで、場所は丸子警察署裏庭、と指示していました。<凄惨な状況に飼い主は> 当日の様子はどうだったか。丸子町の事例ではありませんが、長野県史は「集められた50-60匹の犬は、ロープに首をつられハンマーでみけんを強打されて殺され、たちまち空俵に詰め込まれ、あるいはこも包みにされていった。あまりの凄惨さにいたたまれず、飼い主たちはその辺に愛犬をつないだまま、そっと姿を消したという」と記述しています。
<局長レベルの通牒ひとつで…>
軍需省が全国の飼い犬の強制的供出を決め、軍需省科学局長と厚生省衛生局長の連名で全国の地方長官に「犬原皮増産確保並狂犬病根絶対策要綱」(1945年5月11日発行鳥取県公報1624号より)の通牒を発したのが1944(昭和19)年12月15日(同年12月17日発行、朝日新聞、毎日新聞より)=以上、札幌市公文書館年報第3号別冊の論考「アジア太平洋戦争下 犬、猫の毛皮供出献納運動の経緯と実態ー史実と科学鑑定・西田秀子」。これで、全国での献納運動が推進されます。
長野県は、丸子町で2月の常会徹底事項が出回った後の1945年2月12日に「犬肉利用に関する件」との通牒を出し、と殺と犬肉の販売、配給の注意をして事務的な備えをしています。具体的にどのように支持が出されたかを裏付ける長野県資料は、当センター所蔵のこの2枚の「常会徹底事項」が現状では唯一です。
<長野県では積極的・自主的な協力も>
この時期の取り組みを当時の新聞で見ますと、1945年2月5日の信濃毎日新聞記事では、松本市が2月5日から1か月間にわたって一斉に畜犬と野犬約2500頭の撲殺を行うとし、皮は軍に献納、肉は希望家庭へ配給としています。2月14日の記事では、下水内郡の町村で20日ごろまでに集めてだいたい300頭くらいを撲殺し、犬の重さで1頭3円または5円で買い取り、犬肉希望者には100匁1円20銭で配給するとしています。 一方、犬の処分については日中戦争当時から、何度も声が上がっていました。そして1943(昭和18)年3月4日の信濃毎日新聞記事によると、北安曇郡社村(現・大町市)では村常会で畜犬献納を取り上げ事項として伝達したところ、11人の畜犬者全員がこれを実行し毛皮を大町警察署を通じて軍部献納の手続きをとったということです。また、1944年3月14日の信濃毎日新聞記事によりますと、更級郡翼賛壮年団の取り組みで犬皮献納運動が行われ、200枚ほどが供出されたとしています。 当時、犬を飼うのは税金を払う必要もあり、裕福さの象徴でやっかみもあったかもしれません。しかし、庶民が飼っている例も少なくなかったでしょう。それが戦時下には一種の高揚感からか、とってつけたような理由で簡単に殺されていったのです。これが、戦争の姿です。そこに心は通わないのです。仰々しいだけの事務的な文章が、よく物語ってくれるでしょう。