政府(情報局)からの圧力で題名を変えさせられ、戦争の深まりにつれて内容も凄まじく変化した「キンダーブック」
フレーベル館が発行していた「観察絵本キンダーブック」。1927(昭和2)年、日本で初めての保育絵本として発行された月刊誌で、現在もさまざまに発展を遂げながら継続しています。しかし、こちらも戦時下、政府や軍の圧力、検閲、あるいは時代に合わせて、変貌させられます。
例えば日中戦争下の1941(昭和16)年7月20日発行号「ハシレハシレ」では、表紙は軍帽をかぶってメリーゴーランドの馬に得意げにまたがる子どもの絵で、裏表紙もセーラー服姿の男児で海軍をイメージさせますが、16ページある本文の内容は平穏です。また、巻頭の「お母様方と先生方へ」では「物事をいちいち説明してやるばかりが子どもに化学させることではありません」として、動くものをじっと見つめさせることこそ大事と丁寧に説明し、車輪が木製の三輪車といった時代も拾いつつ、生活に軸を置いた内容となっています。
しかし、この年の12月8日、太平洋戦争が勃発。情報局の英米語排斥方針からか、1942(昭和17)年3月発行号からは「ミクニノコドモ」と改題されます。用紙の配給統制は大きな圧力だったでしょう。こちらは同年5月発行号です。社名も「日本保育館」と変更。元々題名はドイツ語混じりだったりですが、そんなことはお構いなしです。
それでも、軍事色の強い内容はそう多くありませんでした。
同年10月発行号は「シンセツナ オトモダチ」と題した童話で、武井武雄が絵を担当。ほとんど軍事色のない内容で出ており、編集者が踏ん張った感じが伝わります。
ところが、その翌月発行号からは様相が変貌します。12月8日、太平洋戦争開戦の日から一周年を前にした、思想強化指示があったのでしょうか。
そして最後は、自分たちができることをしようと戦争への協力を呼び掛けています。戦時体制の圧力は、ここまでやらせてしまうものです。
特集号とあっては、ほぼ全編が軍事に偏るのも仕方がない、と見逃していたら、軍事ネタを載せるのは当たり前の状況になっていました。1943(昭和18)年1月発行号「カゼ(風)」を開いていて、突然の展開に愕然としました。
最後に、1943年12月発行号をご紹介します。このころは、B5判と一回り小さいサイズになっています。そして内容は、ほぼ戦時一色となっています。副題は「ミタミワレ」(御民われ)と、ますます献身を求めています。
そして、この「ゴムマリ」。「ニホイヲ カイダラ ヘイタイサンノ ニホイガシマス」「ミミニ アテタラ キクヮンジュウヤ タイハウノ オトガ キコヘマス」「テンシサマノ ミタミナラ コソ、 ニッポンノ コドモナラ コソ、コノ ゴムマリガ モラエルノデス」「コノ ゴムマリデ、(略)リッパナ カラダヲ ツクッテ、 ツヨイ ツヨイ、 ニッポンノ コドモニナリマス」…どんな思いで、これを子どもたちに読ませるのか。見せるのか。ここまでさせるのが戦時体制であるのです。
ミクニノコドモは、この翌月の1944(昭和19)年1月発行号をもって休刊となります。戦力にならないと情報局と軍に判断された結果でしょう。ここまで協力させて。節を曲げさせて。
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1945(昭和20)年9月2日、日本の降伏調印で戦争が終わりました。軍や情報局の検閲はなくなりました。かわってGHQの検閲が始まりましたが、戦争遂行を第一とする本にする必要はもうなくなりました。1946(昭和21)年8月、「キンダーブック」が復刊します。そして現在まで、弛まぬあゆみが続いています。
二度と圧力で変えられることのないよう、政治をしっかりみていくこと、世の中を、子どもの目のように、じっくりみること。そして、はっきり声を上げられるように思いを持っていること。そんな当たり前に思えることこそ、戦争を回避することに力を注ぐ政治を生むと信じています。