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戦前の無産政党、社会大衆党の長野県連合会結成大会のポスターをきっかけに、当時の政治への真剣さを知るー今、彼ら彼女らに顔向けできるか

 資本家からの利益供与と無関係の「無産政党」が初めて日本の衆議院議員選挙で登場したのは、1928(昭和3)年2月、納税条項が撤廃された普通選挙法下で行われた第16回衆議院議員総選挙からで、労働農民党の山本宣治らが当選しています。

 長野県でも普通選挙法を機に、無産政党の候補擁立が盛んになりますが、まず、この普通選挙法を求める運動のことから。1890(明治23)年に初めて国会が解説されますが、納税額で大きく制限された選挙でした。そんな状況に反発し、長野県松本市緑町に1897(明治30)年7月「普通選挙期成同盟会」の看板が掲げられ、「普通選挙を請願する趣意」が宣言されたのが、日本の普選運動の始まりとされています。中心になったのは中村太八郎、木下尚江、降旗元太郎らで、1900(明治33)年1月には松本地方の千人の署名を集めた請願書を衆議院に提出するなど活動。普通選挙法が通過したのは1925(大正14)年のことでした。

 先の1928(昭和3)年の選挙に長野県では無産団体協議会の働きかけで、労働農民党・社会民衆党・南信大衆党の無産政党同士の選挙協力が実現し、諏訪で藤森成吉が立候補して、次次点ではありましたが、警察当局などの読みを大幅に上回る得票になりました。諏訪は製糸工場が多かったことから関心も高く、演説会はいつも満員でしたが、当時は1年以上の居住が必要で、普選といっても25歳以上で女子は含まれなかったため、1年契約の労働者や製糸工女は選挙権がなく、残念ながら落選となったのです。
 ところで、女子の参政権を求める運動ですが、長野県では1928(昭和3)年ごろから講演会などが活発化します。そして県議会は1929(昭和4)年12月12日、婦人参政意見書案を全会一致で通過させていました。これも全国では初めてのことで、その後の婦人参政権運動の盛り上がりに寄与したと言われています。

 衆院選に話を戻します。1931(昭和6)年7月の衆院選には、前回の選挙で調整を受けて立候補を辞退した社会民衆党の野溝勝が立候補し、初当選します。一方では、在郷軍人会を基盤とする右翼の愛国勤労党南進支部から立候補した中原謹司も当選して既存政党を切り崩しています。
 そしてちょうどこのころ、全国的には労農党、全国大衆党、社会民衆党合同賛成派により全国労農大衆党が結成されます。長野県連合会も8月19日に上諏訪町(現諏訪市)の都座で結成大会を行っています。
 そして1932(昭和7)年7月24日、社会民衆党が全国労農大衆党に合流して「社会大衆党」を結成、無産政党統一が実現するに至ります。長野県では、佐久地方や上伊那地方などから統一の動きが始まり、1933(昭和8)年8月19日、全国に1年遅れで社会大衆党長野県連合会が結成されました。これが、その時のポスターです。

中央執行委員となっていた野溝議員の名が見える
長野県の無産政党の変遷(長野県史通史編より)

 社会大衆党発足時のスローガンは「反資本主義、反共産主義、反ファシズム」の「三反主義」を綱領としていました。共産党が非合法の存在の時代だけに、目くらましでもあり、実際に反共主義者がいたことも影響しているでしょう。そうした妥協を最初から含んでいました。
 統一後、初めての1935(昭和10)年9月の衆院選には長野県から社会大衆党の林虎雄(後の長野県知事)、羽生三七の2人が当選し、全国でも合わせて38人が当選して議員数は倍増、第三党となり、戦前の無産政党として最大の進出を見せました。

 ただ、その後は1937(昭和12)年の日中戦争の開戦、同年に文部省が発行した「国体の本義」を支持するといった全体主義路線に転換。長野県連も「挙国一致は必然」として、戦争推進体制に取り込まれます。
 中央でも、斎藤隆夫議員の反軍演説に絡む懲罰動議対応で党内の対応が分裂するなど混迷する中、近衛文麿の新体制運動を受けて「バスに乗り遅れるな」と1940(昭和15)年7月6日、解党し県連も解散することになり、大政翼賛会に吸収されていきます。

国体の本義
1行目の説明が狙いをはっきり示す

 敗戦後、労働運動などが復活し政党も結成され、最初の知事選。長野県では当時、社会党の林虎雄が当選します。その時の統一選で、全国で革新政党から知事になったのは2人だけだったと言います。長年培われた反骨精神が表れたのかもしれません。
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 このnoteを執筆中の2024年10月27日は、衆議院議員選挙の投開票日。例えば長野県小選挙区のうち、長野市などの1区の投票率は55・74%。半数近くの方が選挙権を行使しなかったことになります。
 普選後初の長野県議会議員選挙(1927年9月30日)で棄権が多かったことについて、当時の信濃毎日新聞は社説で「政治なるものにあいそをつかしての無関心」と「政治と自己の生活との関係を知らず、その関係において無自覚なるによる無関心」の2つに分けられると分析しています。そして特に前者を問題とし「今日までの政界のありさまがしばしば人をして愛想を尽かさざるを得ない」からとしています。

 今日でも当てはまるように思えます。ただ、有権者は当時に比べ圧倒的に多くなっております。政治に愛想を尽かしたから無関心、というのは権力者の思う壺。そして生活と政治が直結することに思いを深め、今日からでも政治に目を向け、関心を持っていきたいものです。それが生活を守る一つの道でもあり、未来を守るためでもあるのです。


 

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