1943年の新聞連載「日本人の体格美」を読む(下)ー「合理的な黒眼」…日本での黒目は合理的でも、優秀とかじゃなくて…
1943(昭和18)年8月、信濃毎日新聞に3回の連載で掲載した「日本人の体格美」。(上)「短い足は強い」、(中)「団子鼻の優秀さ」に続く締めの(下)は「合理的な黒眼」。表題で何か深い理由を期待するのですが、今回も主観と論理の飛躍が激しいです。表題写真は「世界に輝く日本の偉さはここだ」より、日本人の機敏さを誇る絵です。なんで主語を日本人に広げるのがすきなのか。みんな訓練して会得できるやろと突っ込み。
(著作権切れで転載します。漢字やかなは適宜現代の用語に直し、句読点を補足しています)
日本人の体格美(下)=合理的な黒眼(佐々喜重)
最後に眼について言うならば、日本人の眼は明るい平和な眼であると言うことができる。日本ではきれいな眼を明眸と言い、黒い瞳と言って瞳の黒いうるおいのあるのが美しいとされている。眼は一種のレンズで明暗に応じて光の量を調節する、写真器でいう絞りの作用を受け持つのが瞳である。青い絞りはないように、光学上からも瞳は純が当然である。
青色と黒色は色彩感傷上の強さから言っても黒の方がずっと強く、顔の中心部にある二個の黒丸は顔面を非常にひきしめている。青ではその力が弱くて、それを補うために生まれたのがアイシャドウである。上瞼に暗い色彩を用いて陰をつけ、形の上から目を強調し、同時に瞳を保護するためにあるまつ毛をわざわざ放射線状にくせをつけて眼を大きく見せようとする化粧法である。
一時我が国でもアイシャドウが流行したことがあった。これはまったく己を知らぬ奇怪な流行であったと言わなければならぬ。なぜならば、彼らの額と眼の間は狭く、まぶたに脂肪が少なくてくぼんでいるのに反して、我々の多くは額の高さと眼の高さがほぼ同様であり、また眉と眼の間が広く蔭のない明るい表情をしている。
この明るさを強調したのが粉黛(まゆずみ)の慣習で、絵巻物に見られる公達や美女たち、能面の若い女性などの眉毛をそり落として、そのずっと上方額に黛を入れて上まぶたの平潤な感を強調した。その上、上まぶたには紅をほんのりとさして女性の優しさを出したものであった。このまねだけは彼らに絶対できないのだ。このように本質的相違を無視して、わざわざ明るいまぶたに陰をつけ、暗い表情をつくって街を闊歩した心理状態はどうにも理解に苦しむことであった。
ギリシャ鼻、まぶたの狭くくぼんだ、あるいは富士額に対する四角形の額、その他彼らの持つ表情は、硬い、冷たい、深刻な、極端になると陰鬱な感を見る人に持たせるのに対し、我々の表情は、平和、豊かさ、温かさ、優美、悟りの完成された表情を持っているのである。
日本民族の体格はかくも美しい均整を有している。そのことは機能的にも甚だ優れている。自分自身をもっともっと見究めるならば、より多くの美点を発見できるに相違ない。そこに民族としての大いなる誇りを持つことができるのだ。(完)(転載終わり)
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一連の連載について。日本人の特質の確認や環境に合った体格などを強調し、その良さを伝えるだけなら、むしろ自分たち自身の理解が深まるので何も悪いことはなく、正しい知識の普及につながります。しかし、それをことさらに外国と比較して優劣を付けようとするのは、人種も住む場所も生活習慣も違うのですから、そもそも無理なことなのです。
その無理が、今回も現れています。「合理的」と表題にありますが、内容は主観と論理の無視、都合の良い部分のつまみ食いでしかありません。また、本質的相違を無視して外国人をまねることを非難しているのに、人種の本質的相違を無視して日本人が優秀と言い立てる自己矛盾にも気づいていないようです。
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狭小な「日本スゴイ」論は、この連載企画と同根であると思います。そこまでしないと、日本人は自我を保てないのでしょうか。それをことさら大声で叫ばないと、日本は世界に認められないのでしょうか。「日本人の美徳」と彼らが強調するところのものとも相容れないように思えますが。
なお、「まゆずみ」は、眉を剃って額に眉を描くことで表情を読み取られなくする効果を狙った側面もあるとか。今回、勉強させていただきました。連載の効用は、この一点だけでした。こうした日本人偉いのおごりが、どんな結果を招いたか。骨身にしみた方は、もうほとんどおられないでしょう。この下に引用する漫画も「世界に輝く日本の偉さはここだ」からのヒトこまですが、満州国を植民地とはっきりとらえていたことが明瞭です。当時の日本の偉さの強調は、他者を見下げることと一体だったのです。
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