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「自分たちが行かないと国を守れない」と信じた青年が敗戦を迎え、悩みを打ち明けた青年学校教師の返信

 2019年12月23日、94歳で亡くなられた飯田悦司さん=諏訪市=には、たびたびお話を聞くことがありました。もちろん、戦時下の話も。青年学校に通っていた飯田さんは1945(昭和20)年5月、海軍に徴兵されて静岡県の浜名湖に近い浜名海兵団に入り、軍人精神注入棒に追われる軍隊生活を経て、敗戦は神奈川県鎌倉市大船の基地で迎えています。そして、自宅に帰ったところで弟・福平さんの戦死を初めて知りました。まだ17歳でした。

 新聞記事などによりますと、旧制諏訪中学校(現・諏訪青陵高校)に通っていた福平さんは1944年、海軍の予科練習生、いわゆる予科練に志願します。両親は反対でしたが、「安心して生きていくためには軍隊に行って、戦争に行かないと。俺が行かなきゃ勝てない」との思いに、飯田さんは「俺たちが戦争に行って守らないと国が滅びてしまう」と承諾書に印鑑を無断で押したということです。「そういう人間にさせられた」と振り返っています。

2019年8月22日付信濃毎日新聞朝刊「国家権力にだまされていた」と語る飯田さん

 その弟・福平さんは飯田さんが海軍に召集されて間もない1945年6月10日、奈良航空隊を経て土浦にいたところで空襲を受け、死亡します。既に特攻隊として出撃することが決まっていて、母親が面会に行ったのはその当日でした。飯田さんは敗戦で帰宅して初めてその事実を知り、愕然としたと話してくださいました。
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 「国家権力にだまされていた。少年まで犠牲にする戦争を二度と起こしてはいけない」ー。飯田さんがこの境地に達する前の敗戦間もないころ、当時青年学校で指導をしていた一人の教員に、敗戦の責任を強く感じていること、将来の展望が開けないことなどを率直に問う手紙を送りました。そして同年10月、返事が戻ってきました。
 中の人は、飯田さんからその写しをいただきました。戦場に若者を送り出した立場の人が、敗戦間もなくの時にどんな返事を寄こしたか。手紙は著作物であるので許可なく転載できず、非公開のものなので引用要件も満たしません。しかし、当時の教える側の、この時期の率直な意見は大事と思うことから、手紙の要点を紹介させていただきます。

 ちなみに、表題写真に使って居るこちらの虎の絵のハンカチは、飯田さんが召集された際、贈られたものです。帰って来ることを願った虎の絵を、名のある方にわざわざお願いしてくれたものということで、中の人が譲り受けました。本心は言えなくとも、こうした形で伝えていた証人となっています。

飯田さんに知人が贈った虎の絵のハンカチ

 手紙はB4判程度の紙4枚につづられたものでした。

青年学校教員の手紙の返信コピー(飯田悦司さん寄贈)

 敗戦や家の将来や現状について煩悶しているとの内容の手紙を受け取り、真摯な態度に敬意を表し、それらの問題は自分も苦しみ解決のできないことであるとしつつ、参考にと書いていきます。
 昨日まで勝利を信じて教壇から一死奉公を説いていたこと、その責任を負って職を退くこともなく、何を説こうとしているのかと自問し苦しんで居ると打ち明け、だからこそ飯田さんの心中は察せられるとし、責任を感じるならば、祖国の更生に進んで協力し、世界的な信用の回復をとします。

 さらに戦争を振り返る時、満州事変頃までさかのぼって、冷静に反省してみる必要があると指摘。外交も政治も言論も、軍部の機嫌をとって国民のことを考えない状態になり、正しい意見を言う人もスパイとか民主的とか言って退け、今度の戦争に目の見えない状態で突入したと、世界の孤児となって勝算のない戦争に突入した日本を冷静に分析しています。

 また戦争責任について、東久邇宮内閣で出てきた「国民総ざんげ」という言葉を利用して、戦争責任の地位にある人が敗戦の責任を国民にも分担させて責任をぼかしてしまおうという卑劣さを直視するとあり、当時既にそうした雰囲気を感じ取れるほど露骨なことがあったのでしょう。それと対比し、飯田さんの純真な強烈な責任感(弟を送り出したことにも悩んでいたと手紙にあったのでしょう)は立派とし、そのような青年によって新日本は更生されなければならないと所感を述べて、敗戦の現実、無条件降伏を直視することが大事とし、まともにぶつかっていくことを訴え、励ましています。

 民主主義も毛嫌いせず、研究して良い事はどんどん取り入れて良いと、満州事変より前の日本の姿勢を挙げて指摘します。満州事変以降、自分で目かくしして国民に目かくしして八紘一宇だ、大東亜共栄圏の盟主だ、と独善に陥り進歩を止めたのが今回の敗戦だからと。最後に、今後は中国との真の提携が必要であり、日清戦争以来の幾多のばかげた戦争は永久にしてはならぬとし、中国に敬意を払うこと(これは卑屈ではない、と注釈入り)で良い隣人となるだろうと締めくくっています。
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 中の人は当時、飯田さんにこの手紙を帰り間際に渡され、ほかのことに興味が行っていたため、感想を聞いていません。しかし、コピーまで用意して中の人にも渡してくれたことは、この手紙が時間をかけて、心の整理に役立ったのであろうと思えます。
 その後、飯田さんは事業の傍ら、戦時下で隠され、自身は体験した東南海地震の姿を明らかにしようと「東南海地震体験者の会」を設立し調査、防災対策を提起。2004年には自衛隊のイラク派遣などを契機に「戦争はいやだ、平和を守ろう会」を設立し会長を務めてきました。日本が変な道に進まないよう、おのれの信じる所を進んだ方でした。あらためて、ご冥福をお祈りし、中の人はまた自分のやり方で、戦争を起こさせない方法を追うことを誓います。

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