日清戦争、日露戦争の武将・軍艦の一覧ー相撲の番付表を真似た品に、まだ戦争は遠くの事という軽い雰囲気を感じる
日清戦争は、明治維新を経た大日本帝国が初めて行った本格的な戦争です。しかし、戦場は日本国内ではなく、朝鮮半島と中国とあって、ある種、庶民には「高みの見物」という感覚があったのではないでしょうか。日露戦争では戦死者も多かったうえ、開戦までの好戦的な世論づくりもあって、もう少し身近な存在になったでしょう。しかし、今度も戦場は朝鮮から中国の満州にかけてというところであり、やはり緩さがあったことは否めないでしょう。
そんな緩い雰囲気の見える、日清戦争と日露戦争の指揮官や軍艦を相撲の番付表に見立てて紹介する品をご紹介します。
まずは「日清陸海軍武将名鑑」。日清戦争は朝鮮の覇権を巡る争いで、東学党の乱の鎮圧を名目に清国と日本が派兵。清国に「朝鮮で日本独自の内政改革を行う」とし、期限までに回答がなかったとして朝鮮王宮を占領し、清国軍の撤退を大院君に「依頼」させて開戦に持ち込みます。1894年7月25日、直ちに牙山に進撃して日清戦争が始まりました。正式な国交断絶は7月31日となります。
「名鑑」は同年10月8日の発行。既に戦闘が陸海軍によって進められる中で、戦争景気に乗ったものでしょう。9月15日は平壌占領、海上では17日、黄海海戦で勝利するなど、連戦連勝。そんな状況を受けての発行でした。
その下には、緒戦の牙山の戦闘で勝敗を分けた日本と清国の将軍をらを挙げています。福島安正中佐は、長野県松本市の出身で、後に単騎シベリア横断で名を成す人です。
人名の下には、軍艦の名前が並んでいます。豊島沖海戦、黄海海戦を経て、清国海軍には大きな損害が生じていたことから、既に沈没などを記載して、やはり日本の勝利を示しています。日清戦争は1895(明治28)年4月17日、講和調印となります。その後三国干渉があったのはご存じの通り。5月5日に遼東半島を還付し、代わりの賠償金を取りますが、このころからロシアへの敵意が形作られていきます。
三国干渉で遼東半島を返還させたロシアや列強各国は、日本への賠償を払えるようにと清国に次々押し掛け、資金を貸し付ける代わりに鉄道敷設権や鉱山採掘権などを得ていきます。そしてロシアは遼東半島の租借に成功して、旅順要塞を築くなどします。
そんな列強の侵略と重税に抗して「義和団事件」が「扶清滅洋」を旗印として発生。日本を含む列強8か国連合軍が鎮圧に乗り出すと清国は宣戦を布告。しかし連合国軍の北京占領で戦闘は終結します(北清事変・1900—1901年)。この時に各国とともに駐兵権を得た日本軍は、これを足掛かりに日中戦争に突入しますが、それはまだ先のことです。
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さて、こうして軍隊を多数出動させた各国ですが、ロシアは満州を占領していました。清国とも講和成立後に部隊を引き揚げないロシアを各国は非難するも、撤兵は不十分なまま。大韓民国に近い場所で砲台を築き始めるなどし、さまざまな交渉も挫折。1904(明治37)年2月4日、日本は開戦を決意して動員令を出し、2月6日に国交を断絶、2月10日に宣戦を布告し、日露戦争が始まります。
こちらの「日露軍人英雄鑑」は同年2月9日印刷、2月11日発行となっていますので、開戦前に準備、宣戦布告直後から販売を始めたということになります。
日露戦争は南山、旅順などの陸戦では大損害を出しながらも、ロシア側を押し込んで奉天会戦に勝利。日本海海戦での完勝などを受けて、ルーズベルト大統領のあっせんで講和会議を行い、1905(明治38)年9月5日、講和が正立します。国内では賠償金を得られなかったことに反発する日比谷暴動などが起きていますが、講和によって、日本は朝鮮半島に対する支配権をロシア、英国に認めさせ、遼東半島の租借権、南満州鉄道の経営権を確保します。ここで日本は中国大陸に強固な足場を得ることになります。
そして、この遼東半島を基盤とし、南満州鉄道や付属地の警備名目で設けられたのが関東軍です。関東軍は、中央の意に沿わずに独断専行で張作霖爆殺事件や柳条湖事件を起こし、日本を日中戦争に引きずり込んでいく役割を果たしていくのですが、それはもう少し先のことでした。
そして、そこからの戦闘は、確かに日本を戦場とはしなかったものの、規模に於いて、期間において、それまでとは比べ物にならない戦闘を継続することになり、今度は国民生活に大きな影響が出てくるのです。もはや「英雄鑑」などの出る余裕はなかったことでしょう。特に太平洋戦争に至っては、鬼畜米英ですから、同列に並べて比較など論外だったでしょう。近代戦は、そんな憎悪まで含めた総力戦なのです。もはや武士道もくそもない、兵隊も民間人もない、殺すか殺されるかがすべてとなるのです。そして、それこそが戦争の本質だったのではないでしょうか。