戦時下の焼き物ー花器までも砲弾型に
表題写真と一連の写真は、太平洋戦争下、大日本国防婦人会郡山支部(奈良県)が地元の歴史のある窯元、赤膚焼尾西楽斎(5代)に特注して作ったとみられる「砲弾型の花器」です。
高さは15センチほど。みごとにバランスのよいもので、砲弾型の貯金箱はよくありますが、花器というのは珍しいものです。ただ、生け花や花を飾るという行為にまで戦争を取り込んでいくのは、やはり戦時下。心の休める場所を確保するのは贅沢で、戦争とともに生きろという暗喩なのでしょうか。元の持ち主もどう使えばいいのか悩んだせいか、ほぼ未使用状態です。
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一方、こちらの品は、山形県内で1927(昭和2)年に生まれた女性が、女学校時代(時期的には太平洋戦争当時)に授業で作ったという「報国貯金箱」です。
砲弾型で、薄い緑色。釉薬をかけてきれいに焼き上げてあります。お金の投入口の上部にちょっと乱れがあり、手作り感があります。
中の人の手は大きいので、大きさの比較には向きません(笑)。底に達筆で名前を書いてあります。女学校に入りたてというより、もっと年長の人の手による丁寧な作りと思えます。卒業年時は1943(昭和18)年ごろですから、そのころの品かと思われます。きっちりとした砲弾型に作ったのでしょうが、乾燥していて、少し細ってしまったようです。中には硬貨らしきものが1枚入っており、ふるとシャリシャリ音を立て、当時の雰囲気がしのばれます。学校の内部に砲弾が自然に入り込む違和感は、先ほどの茶器と同じ。戦時下の普通は、平常時には受け入れがたくあります。
ところで、この品には「報国貯金箱」といった文字が入っていません。形も出品者が当初タケノコ型と間違ったように、どうとでもとらえられます。こうした、ちょっと見たのでは見過ごしてしまうような戦争の遺物は、きちんとした説明とともに伝承しないと価値がわからなくなります。
先に示した茶器なら箱書きがなくとも作風などからいろんなことがわかるでしょうが、こうした品は作った人からの伝言が頼りです。もう、この貯金箱を作られた方は他界し、詳細を知ることはできません。出品者からの説明を基礎にこうして説明を付け、私が伝承していくことになります。
モノは将来に残していけますが、しっかりした伝承があれば、その価値も高まります。できうる限り、戦時下の庶民の思いがこもった一つ一つの品とより多く出会い、収蔵し、将来につなげていきたい。人の体験を伝承するのと同じように、今のうちに地道な取り組みが必要だと思っています。
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