見出し画像

敗戦後しばらくの1949(昭和24)年、長野市では善光寺御開帳と平和博覧会が行われましたー戦争から逃れた空気感を感じられます

 敗戦から4年近くの1949(昭和24)年、日本はまだアメリカの占領下ではあったけれども、長野市では善光寺の御開帳と、これに合わせた平和博覧会(主催 長野県、長野市、長野商工会議所)が善光寺に隣接する城山公園一帯で開かれました。

博覧会パンフレット
会場の鳥観図。左手が善光寺、中央と右手が博覧会場

 善光寺の御開帳は、秘仏であるご本尊と同じように作られていて、これも普段は厨子に収まっている「前立本尊」の扉を開き、さまざまな法要を行うものです。現在は6年に1度のペースで開いていますが、もともとは地元の商工業者が随時、善光寺に御開帳を行うようお願いし、それに応えて御開帳を行ってきたということです。
 つまり、御開帳という宗教行事で多くの人を集め、それによって地元の業者もさまざまな恩恵を受けるという関係があったのです。ちなみに前回の御開帳は新型コロナで1年順延しましたが、このほど御開帳のお願いが商工会議所から行われ、5年後でいくか、6年間隔でいくか、注目されています。

 そして、敗戦後最初の御開帳が、ようやく世の中が少し落ち着いてきたこの時期に、地元の要望を受けて開かれることになったわけです。そして、せっかくなので戦後の復興を願い、産業や特産を紹介し、子連れにも来てもらえる遊園地なども設けた博覧会も期間を合わせ、1949年4月1日から5月31日まで行われました。

開催期間が分かる平和博覧会前売り入場券。金額が戦後インフレを感じさせます
入場券
裏面が会場図になっています

 前売り入場券は博覧会の福引券を兼ねており、特賞は「婚礼道具一式(家具類)」とあり、戦後の新たな出発の雰囲気を盛り上げます。1等は三脚付きのカメラや洋服ダンスなど、2等は4段式重箱や茶道具一式などでした。
 また、入場券を見ますと、どんな施設が設けられていたかが分かります。外国関係では「アメリカ文化館」のみで、あとは長野県らしい蚕糸繊維館などがありました。そして子どもの人気は、やはり遊園地だったのでしょう。当時の写真をいくつか入手しましたので、ご覧ください。

会場の城山公園。中央の噴水は近年まで健在でした
アメリカ文化館
工業館。特産館も兼ねていました
シンボルとして造られた「平和の塔」
児童遊園地のある区域への通路はこの通り
遊園地の遊具
遊園地のミニ電車は超満員の様子

 これだけの人が集まっていたということは、それだけ生活にも余裕が見えてきた証拠だったでしょう。そして個人が街の様子を自由に撮影できたのも、戦時下が過去のものとなったことを感じさせます。アメリカ文化館には、占領政策をスムーズに進めるアメリカの意向もあったのではないでしょうか。
           ◇
 それでも、この時期には戦時中の物資不足の生活体験者、満州開拓や義勇軍への参加者、そしてもちろん兵隊となって戦地に赴いた人など、戦争の時代を知っている人がほとんど。まだまだ生活が苦しい中、せめてもの息抜きにと訪れた人、戦争がないということのありがたさを感じる人、アメリカの占領下であることをあらためて思う人など、さまざまだったでしょう。せめて、戦争ですさんだものを、少しでも癒してくれたならと、そんな思いも博覧会、御開帳には込められていたのではないでしょうか。
 戦争は、もうこりごりという当時の思いを、決して忘れてはならないでしょう。

 

いいなと思ったら応援しよう!

信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
ここまで記事を読んでいただき、感謝します。責任を持って、正しい情報の提供を続けていきます。あなた様からサポートをしていただけますと、さらにこの発信を充実し、出版なども継続できます。よろしくお願いいたします。