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誤った説が流れると訂正が難しいー長野県松本市の飛行機工場疎開事例にみる

 太平洋戦争末期、長野県内にはさまざまな工場や会社が疎開していますが、松本市には三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所の疎開があったことがわかっています。また、一度は市街地の劇場などへ疎開してきた工場を、軍主導で再疎開のための地下飛行機工場を建設する工事が行われ、現在では落盤などの危険性があり入れないものの、近隣の里山にトンネルが掘られ、朝鮮人や中国人労働者が主力となり、軍隊とともに作業に従事したことが明らかになっています。
 岩盤が固くて手持ちの資機材ではトンネルが掘れないという事情があった里山辺村(現・松本市)と中山村(同)には、半地下式の工場と飛行機を格納する掩体壕が作られていました。資材不足も極まれりで、木製部材を接着剤でとめて骨組みをつくり、板を張ってかまぼこ型の建物を建て、土を盛って隠して仕上げるというものです。
 それと同時に、トンネルを掘ることの出来た城山、向山では地下工場のトンネルもほられていましたが、いずれも未完成で終戦までに機械が据え付けられることはありませんでした。

 松本市では、市史編纂にあたって、近代・現代部門編集委員会が1992年7月に「松本市における戦時下軍事工場の外国人労働実態調査報告書」として、疎開や工事の実態を、先行していた民間団体の研究なども参考にしながら米軍や三菱、防衛庁の資料、そして地元での聞き取りによってまとめました。かなり疎開の実態は解明されたものの、肝心の外国人労働者、特に朝鮮人については充分な把握ができませんでした。
 松本市史編さん室長・小松芳郎氏(故人)は報告書末尾に「わずか47年前のできごとなのに、わからないことが多すぎるということを強く感じました」「こうした調査がもっとはやくにきちんとおこなわれていたならば、事実がより明らかになったのではないかとあらためて思います」と胸中を吐露しています。

報告書

 報告書に添付された米軍の戦後の調査地図が、疎開概要をよく示していますので、下に示します。

「米軍戦略爆撃調査団報告書」収録の松本方面の疎開地図

 松本駅から広がる市街地に工場や事務所が分散し、下の村井駅から近い陸軍松本飛行場=特攻隊の訓練にも使用された=と格納庫の様子、そして右手の中山村と里山辺村に半地下工場と地下工場が示されています。ちなみに、現在残されているゼロ戦の後継機「烈風」の著名な写真は、この松本飛行場の格納庫内に組み立てられていたものを撮影したものです。

 では、これら工場疎開の時期はいつか。最も貴重で古い記録は、戦時中に里山辺村の村長だった人が1946年に記録した手記で、軍が工場用に土地や建物の使用を申し入れに来たのが「昭和19年6月初め」と明記してありました。また、朝鮮人の人数も7000人としてありました。

手記「終戦余話」より「里山辺における朝鮮人・中国人強制労働の記録」収録

 何しろ、当時を知る人が終戦間もなく書いた手記です。内容に間違いのあろうはずがないとして、この手記の記述が長野県史をはじめ、さまざまな本に孫引きされて流布するに至りました。特に、松本市の里山辺村には1945年3月2日、B29より爆弾が4発投下されて山辺小学校の窓ガラスが割れるなどの被害が出ていることから、米軍が軍事工場の威嚇のために投下したと現在でも喧伝され、この手記の内容を裏付けるものとされました。

 一方、報告書では、各種の資料の突合せ、学校日誌の記述などから、実際は1945年4月以降に工事が開始されたのであり、特に1944年6月25日の地方事務所長からの軍関係施設や企業整備」についての調査報告に対し、この村長が「標記の件該当なし」と回答しており、時期は決定的な誤りであることを示しています。1944年当時は村井駅近く、神林村(現・松本市)の陸軍松本飛行場が建設されていたころであり、これと混同した可能性があります。
 また、半島人7000人という数字は熊谷組関係者の大工や学徒動員を含めての数とみられ、朝鮮人の人数は表さないことを明らかにしています。ただ、朝鮮人は990人といった数字もありますが、決定的なものはなく、家族らも含め3000人程度という見方もあります。
 一方、中国人捕虜については503人が工事に従事したことがわかっており、このうち7人死亡、6人行方不明となっています。死因は内臓系の病死とされていて、劣悪な栄養と衛生の環境だったことをうかがわせ、行方不明はいずれも戦後の脱走で、俘虜の扱いが劣悪だったことを示すとみられています。この、朝鮮人と中国人の確認の差は、当時の朝鮮人が日本人扱いされていたのに敗戦で放り出されたことから、積極的な調査や確認がなされなかったことが一番の原因となっています。中国は戦勝国であり、そこにはきちんと調べて報告しているのですから、朝鮮人についても、同胞として責任を持って調べるべきだったと思えます。これが、現在にも至るしこりにつながっているのではないでしょうか。
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 一歩引いて、国の政策関係を見てみますと、政府は1945年2月23日、工場緊急疎開要項を定め、特に航空機関連の疎開を重視。このときから軍当局が動き出し(それまでは各社の判断によっていた)、三菱の名古屋航空機製作所についても空襲被害に鑑み、4月4日に軍需大臣が疎開命令を発令しています。戦時下では、動員や物資の確保は厳重な統制下にありましたし、民間の動きに軍が協力するのではなく、軍の指導に民間が追随するという、歴史的背景がありました。
 これらからすれば、松本市への、特に軍が関与した地下・半地下工場への疎開は、1945年2月以降であり、具体的には4月からとするのが正解といえるでしょう。そのため、空襲との関連も、両者が戦争末期の混乱における記憶として錯綜していたといえるでしょう。

空襲との関連を否定する「報告書」
証言からも裏付け「報告書」

 しかるに、こうした報告書の内容は地元でも充分周知されず、未だに「はっきりしていない」とする案内板が出たり、3月2日の空襲が工事と関連しておきたとする話がマスコミで流されたりしている現状をみると、最初に擦り込まれた誤った情報が、いかに書き換わりにくいかを伝えています。と同時に、証言と裏付け調査は、過去を知る車の両輪であり、特に戦時指導は、政府の方針から点検する必要があると、よく分かる事例であると思います。

 中の人も、こうした点を注意し、できる限り複数の資料や当時の政治的軍事的背景も含めた考察を勧め、責任を持って発信したいと思います。

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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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