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日中戦争から太平洋戦争中の「英米語追放」は、指示なし。統制担当者や地域の気分で。

 英米語を、最初に「外国かぶれ」として撤去を推進したのは政府でした。日中戦争下の1940(昭和15)年、国民精神総動員という名目の中、まずは手本を見せようと、駅のローマ字表記や英語の案内表示撤去、たばこ「ゴールデンバット」を「金鵄」と改名するなどしました。このころは日中戦争じり貧から物資不足も顕在化してきたころで、国民の不満を「日本精神」で引き締めさせるかのような取り組みでした。地域でも、洋風看板撤去などがポチポチ行われました。
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 太平洋戦争勃発とともに、学校現場からの英語教育が縮小されていく傾向が表れます。そして、最も大きな影響を与えたのは、内務省などによる1943(昭和18)年1月13日の米英音楽演奏禁止リスト発表でした。ジャズなどの「退廃音楽」を演奏したり聞いたりするのは日本人を堕落させるといった理由付けですが、その程度で堕落する精神しか持ち合わせていなかったのでしょうか。
 これに呼応して、地方での英語看板撤去が進むなどしますが、最も強い影響を受けたのは出版物と思われます。これは、紙の配給を政府が統制していたことと、国民の眼につく出版物を特に警戒したという側面があるでしょう。あくまで指導であり、法律の裏付けがあったわけではありませんが、紙を押さえられている出版側は従わざるを得なかったでしょう。
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 信州戦争資料センター所蔵の週刊誌「サンデー毎日」を見ると、1943(昭和18)年1月3日号は「サンデー毎日」ですが、3月21日号は「週刊毎日」になっています。1940年ころの取り組みより、「敵性語」としてさらに徹底した様子が伝わります。

信州戦争資料センター発行「信州と戦争の時代」より。

 同様に、1月から3月にかけてさまざまな分野で改名が相次ぎ、雑誌では「ユーモアクラブ」が

「明朗」に

「キング」が

「富士」、といった具合に。改題してしばらくは、元の雑誌名からの改題である表記がありました。

いずれも、少しでも雰囲気を残す題名を工夫していますが、「キンダーブック」が「ミクニノコドモ」となり、出版社名まで変更となったのは凄まじいばかりです。

 スポーツの用語も規制が厳しく、言い換え例として「ホッケー」が「杖球」、「レスリング」が「重技」になります。アイスホッケーは「氷球」でした。禁止されたジャズレコードを一掃するため警察が飲食店を回ったという1943年の信濃毎日新聞記事では「音盤数十枚」と、「レコード」の書き換えをしてありました。
 一方のアメリカでは、戦争を受けて日本語や日本文化を積極的に学んでいたといいます。日本語学科がいきなり学生であふれたとか。
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 さて、雑誌の改題は英米語からとどまるところをしりません。普通の日本語の「婦人画報」。下の写真は1943年4月号で、特に変化はありません。

 ところが、なぜか1944(昭和19)年5月号から「戦時女性」に改題させられます。戦争に役立つことを求められたのでしょうか。

東条首相の言葉がとてもいや!

 下の写真は1945(昭和20)年6月号で、空襲で編集部を東京から長野県の中野市に移してつくったものです。同じ雑誌とは思えない変貌ぶりです。

 婦人画報の改題や変貌は、英米語を追放した担当者が、ほかに何かしないと職務怠慢だとして仕事を探した結果としか思えません。まるで特高警察が共産主義者を壊滅させたら次は自由主義者も、と弾圧したようなものです。規制はエスカレートするという事実を、当時の雑誌が伝えてくれます。

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信州戦争資料センター(まだ施設は無い…)
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