戦時下最大の誤報、台湾沖航空戦ーその責任はどこにあったか
表題写真は、1944(昭和19)年10月20日付朝日新聞の1面です。米軍がいよいよレイテ島へ上陸を開始したニュースの隣に「赫々たり台湾沖航空戦」と、海軍による大勝利の報道が載りました。
「敵兵力の過半壊滅 撃沈破45隻 空母19戦艦4など」と見出しが躍っています。戦果一覧表を見ると、空母だけでも11隻撃沈となっています。真珠湾どころじゃない、太平洋戦争全期間を通じて最大の戦果です。
社説でも「我等、戦果に続かん」とこの勝利を取り上げ、「一億国民の憤激が凝って滅敵の翼となったものであって、国民を挙げて今次の台湾沖航空戦に参加したるものといっても過言ではないのである」「更に憤激を新たにし…増産に邁進し、今次の大戦果に続かんことを誓うものである」―と盛り上げています。
さて、このニュースを受け取った人たちの反応はどうだったのでしょうか。こちら、長野県埴科郡戸倉町の親戚に宛てた、奈良海軍分遣隊で飛行訓練に取り組んでいた兵士の手紙です。
1944年10月18日の消印ですが、台湾沖航空戦の戦果は12日から15日まで5回発表されていて、6回目の総合戦果が出る前、その途中に書かれたものです。「嗚呼遂に一億の団結があの戦果を生み出しました。若い血潮の我等の体躯にはいよいよ熱烈な忠君愛国に生きる血潮が湧き出ます」と、大いに士気が高まっているようです。海軍の兵士であることを割り引いても、素直に戦果を受け止めて高ぶったのが正直なところでしょう。
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一方、「連合艦隊の最期」には、不時着水したであろう兵士を捜索に出た重巡洋艦那智と足柄の様子が描かれています。勝ち戦の後始末で、頑張った飛行士を少しでも救難したいと気分よく航行させていたところ、壊滅させたはずの米艦隊を発見!
両艦は、缶が破れそうなほどの全速力で逃げ帰ったといいます。つまり、当初はこの大誤報を、誰もが信じていたのです。
では、なぜこの誤報が生まれたのか。未熟な兵士による誤認、例えば友軍機の墜落による水柱も敵艦への命中弾といった類のものが重なったのに加え、死んだ兵士に温情をかけて報告を大きい方にバイアスをかけた上官の、それらの積み重ねが、結局撃沈は1隻もなし、2隻の大型巡洋艦を大破させただけなのに、45隻撃沈破という数字を生んだのです。
そして新聞。大本営発表の情報以外、書いてはいけないし詮索も許されなかった。とすると、それを書くしかない。そんな仕事が何年も―日中戦争から数えれば7年も―続いていれば、もはやまひしているでしょう。少ない情報で紙面をうめるとなれば、無意味な修飾語の羅列で飾るしかなかったー。だから今読むと、とてもすかすかの文章なのです。
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そして、この紙面のトップで掲載されている「敵艦隊船団を伴い比島レイテ湾侵入」の話。台湾沖航空戦は、フィリピンを巡る戦いの一環でした。陸軍上層部は、米軍が壊滅したならと、当初予定していたルソン島地区での決戦方針を10月20日に変更してレイテ島で決戦を行うと決定します。
その前に、打診を受けた比島方面軍司令官山下奉文大将は「台湾沖航空戦の成果がどうであろうと、敵が今比島の一角に来攻したのは、今までの敵の堅実なやり方から判断して、兵力と準備に確信あってのこと。こちらは何の準備もしていないレイテに、突如大兵力を差し向けても、予期する戦果は望めない」(大本営発表の真相史)と反対します。しかし、最終的に押し切られ、困難な海上起動で準備不足の地に兵を差し向けた結果、戦力をすりつぶすことになります。
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一方の海軍。敵のレイテ空襲などが衰えず、17日ころどうも怪しいと大本営海軍部は関係者を東京に集め情報を精査。「どう有利に見ても航空母艦4隻を撃破した程度、撃沈艦は一隻もなし」(同)と結論付けますが、21日には天皇のお褒めの言葉もあったため訂正できず、さらに大本営陸軍部にも知らされませんでした。この理由は分かっていません。しかし、戦場での戦果確認が困難なのは常の事で、搭乗員報告だけに頼ってきたツケがここに出てしまいました。さらに、組織として恥をかきたくないという思いが作用して内部にとどめたことは容易に想像できます。
しかし、その代償は大きく、陸軍が万全の米軍にぶつかって壊滅することになります。
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戦時下の情報統制は、組織内の情報に対する第三者の目が介入することを許さないのです。その結果は、それぞれの組織の保身を見抜くこともできなくさせます。統制で情報機関を押さえつけ、さらに第三者によるチェックが入らない組織のもろさ、今でも学ぶ必要があるのではないでしょうか。
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