うっとうしい大政翼賛会のポスター
1940(昭和15)年10月12日、「本運動の綱領は、大政翼賛の臣道実践ということに尽きる」「本日は綱領、宣言を致さざる」と近衛文麿首相の投げやりなあいさつで発足しました。近衛文麿は軍部を抑える政治力を生む国民組織作りを狙ったのですが、さまざまな団体の思惑から右往左往し、政治結社を否定された近衛文麿は意欲をそがれる一方。会の名称も9月に決まったばかりで、綱領も宣言も、発足時には何も決まっていなかったのです。結局、政府から臣民への上意下達のピラミッド組織に成り果てます。
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そんな大政翼賛会が出したポスターをいくつか入手していますので、紹介させていただきます。こちらは文体から、1942(昭和17)年か1943年の秋に作られたとみられる壁新聞のようなポスターです。
「新穀のこの一粒、きびしい決戦の真っただ中に、祖先の心を継ぐ力を受けよと、たわわなる稔りに与えられた神意を汲もう。その一粒も戦力となれと、農家の真心こめた祈念に、われらは必死の増産で応えよう」。厳しい戦局の中における神がかりの思いが伝わります。
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近衛文麿が最初に考えた大政翼賛会は、国民の草の根の力を政治力にとの狙いだったのですが、結局、隣組を通じて国民を統制する組織となってしまいました。そのため、ポスターも何とも言えない上から目線を感じます。こちらは1941(昭和16)年7月1日に、全国一斉に隣組の常会を開こうと呼びかけたものです。協力を強調していますが、あくまで、下々の話です。
ここに出てくる興亜奉公日は、戦地の兵士の苦労をしのび、銃後の守りを固める決意の日として、日中戦争が長期化し物資も不足し始めた1939(昭和14)年9月1日から、毎月1日が興亜奉公日とされて始まったものです。ちなみに太平洋戦争が始まると、これが「大詔奉戴日」となり、開戦の詔書が出た日にちなんで毎月8日があてられることになりました。その日は贅沢をしないで献金するとか、いろいろ言われましたが、気にせず行動する上流層もいました。
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こちらは、字のみのポスターで、1942(昭和17)年4月の衆議院議員選挙に向けたものです。この時は、大政翼賛会の各支部が推薦する候補だけを当選させるよう、激しい警察などの干渉があり、「翼賛選挙」を徹底させました。長野県でも。非推薦候補陣営は関係者が次々と検束され、激しい干渉の中で推薦候補のみが勝ちあがっています。この無機質な文字だけのポスターからは、上から下への威圧感が感じられるようです。
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この2枚、「大政翼賛会」と印刷した紙で書初めをしたわけではありません。印刷されたポスターです。
時期的には、米英に宣戦布告して緒戦の華々しい勝利の余韻があった、1942年当時と推測しています。誰が書いたかは知りませんが、実に力強いものがあります。文字だけで訴えるのも、バランスやデザインを考慮する必要があり、なかなかこういう力強さを出すのは苦労したのではないかと思います。暮らしの手帳を創刊した花森安治のような、一流のセンスを持った方々が精魂込めていたのです。当時の人々は、高揚した気分をこうしたポスターで増幅したのでしょう。
でも、こちら、書初めの手本にはいいですが、街中にいくつもあったら、さすがにうっとうしくなるのではないでしょうか。そんな息苦しさも、戦時下の空気を生んでいたとすれば、目的は達成していたのでしょう。