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「航空特攻隊 空に散った信州人」を読むー長野県出身の航空特攻隊員の何人もの生涯を資料で追い、ひとりひとりの人生や家族へ寄り添うことが大切と説く

 陸海軍の航空特攻隊をとり上げた本の中に、個人に焦点を当てたものはいくつもありますが、「信州ー長野県」という地域のくくりでまとめられたものは珍しいのではないでしょうか。ここに、特別な神様といったひとくくりの特攻隊の扱いではなく、郷土に確かに住んでいた青年らが、航空機により敵(時には桟橋)に体当たりする「十死零生」の下策に投入されていった、その出撃までの生を身近に感じることができるように思うのです。

長野県の航空特攻隊員を掘り下げた力作

 著者の伊藤純郎・筑波大学名誉教授は、長野県の伊那市高遠(旧高遠町)の出身で、中の人の展示会にもたびたび足を運んでくださっています。なぜ信州のくくりをしたか、伊藤氏は、長野県出身者の特攻隊員は県別でみると陸海軍とも上から8番目に多いとし、それはなぜなのかという問いに始まり、「どのような人びとが航空特攻隊員となったのか、航空特攻はどのように報道されたのか、航空特攻は人びとにいかなる影響を与えたのか、航空特攻とは何だったのか」について考えてみたいとしています。等身大の青年たちと、作戦を強いた時代を浮き彫りにさせる意気込みが表れています。

著書多数。長野県に演武会満蒙開拓の著書もある

 実際に長野県出身で特攻隊員となり、戦死した人は何人いるかを、まずは複数の資料の突合せで明らかにします。これにより、陸軍31人、海軍84人、合わせて125人が航空特攻で戦死したとし、隊名、機種、発進地、出身地、出身別、それに戦死日まで、一覧で整理されました。この中には、陸軍最初の航空特攻隊「万朶隊」に所属し、出撃直前の爆撃で1944(昭和19)年11月25日に戦死した奥原英孝(安曇村出身)のような隊員も含んでいます。
 また、海軍航空特攻隊でも、最初に編成された「第一神風 山桜隊」に南条村(現・坂城町)出身の滝沢光雄が含まれており、1944年10月25日に戦死していました。奇しくも、陸海軍それぞれの最初の航空特攻に長野県出身者がいたのです。

 本書では、特攻隊員が新聞などでいかに報じられたか、出身の学校などで、どのような影響を与えたかといった、社会への航空特攻の広がりを掲載しています。そして、信濃毎日新聞を始めとする各社が作文の募集などを通じて戦意高揚の役割を果たし、教育現場での航空志願兵を促したことも明らかにしていきます。そのような社会状況の中で、遺族はどのように振舞わねばならなかったか、記事や遺族の回想などで浮き彫りにしていきます。

 そして、隊員が残した遺書や遺品についても触れ、その遺書に至るまでの過程を知り、その行間を読むことの大切さを伝えています。例えば東春近村(現・伊那市)出身の下平正人は実家に帰省した際、軍刀と日記を置いていきました。そして、日記の最後のページには「特攻は強制ではなく、あくまで志願だ。しかしそう決心するまでは、長い時間がかかった。ようやく覚悟して申し出たら、すっきりした気持ちになれた」とあったとし著者は「決心」するまで過ごした日々、「決心」してから出撃するまでの日々、その「出撃までの一月半を下平はどのような想いで過ごしたのだろうか」と寄り添います。「『決心』から『出撃』までの過程、生から死への道筋の中で特攻隊員は特攻をどのように受容し、特攻死をどのように意味づけたのだろうか」と自らに問い掛け、覚悟の最後の遺書の「行間に刻印されたこうした葛藤」を、我々は「正しく読み解くことができるだろうか」と自問しつつ、それらの言葉の表面をなぞることで何かを知ったようになることを戒めているようです。

帯に書きだされた本文の一部

 そして、同時代の人々の特攻賛美と、わずかにあった特攻批判の声も拾い上げていきます。本の帯に「特攻に対する国民の熱狂ぶり」とあるように、当時の天皇制下で育ってきた人たちにとって、航空特攻の華々しいイメージが「特攻」を日常用語とし、戦争への協力に邁進した雰囲気が伝わります。そんな中で、特攻隊の戦術を批判しようものなら、まず検閲で引っかかり、そして亢奮した人々の怨嗟を受けることとなった時代の空気が伝わります。

 しかし、たとえ発表する予定のない日記とはいえ、航空特攻という戦術を冷静に批判した清沢冽=北穂高村(現・安曇野市)出身=がいたことも明示します。後年、「暗黒日記」として出版されたその日記の1944年11月4日の項で「神風特攻隊が、当局その他から大いに奨励されている。ガスリンを片方しか持って行かないのらしい。つまり、人生二十何年を『体当り』するために生きて来たわけだ。人命の粗末な使用振りも極まれり。しかも、こうして死んでいくのは立派な青年だけなのだ」と。11月23日には「精神主義高調の結果が、人命を以て物質の代理をするに至ったのである。しかも何人も注意するものもなく、民衆、気がつかず」と記しています。
 そして翌年1月11日には「『特攻精神』というのが毎日の新聞とラジオで高調している。日本には死の哲学があって生の哲学がないとはその通りだ。この結果、どこでも無理が行われて健康が害されつつある」と社会の亢奮振りを記します。こうなると、特攻という戦術をやめることは、盛り上がった社会の雰囲気を壊すとして、軍が特攻に一層固執することにつながったでしょう。
 そして、著者は特攻という戦術とそれを昂揚するマスコミや軍に対する怒りをしめしたこのような日記があった一方で、日記ですら特攻隊を賛美した事例も上げています。「死の哲学」に日本中が浮かされていた様子がはっきりと見えてきます。
           ◇
 そして、この本には、戦果が書かれていません。これは、著者が作戦としての航空特攻ではなく、航空特攻に組み込まれた青年たちを、個々の人間として見つめることの大切さを大事にしたからではないでしょうか。

 中の人も、個々の隊員に極限の苦悩を強いて、その生を断ち切らせた特攻という「統率の外道」を絶対評価できません。何しろ、この本でも出身の市町村すら分からない方もおられるのです。それほど「個」を消し国家につくさせたのです。特攻とは、そもそも戦果や戦術、戦略といった戦争の理論で語るものではなく、国家が国民に「絶対死」を命じるという、まさに「国家とは何なのか」という点こそが最大級に問われねばならない問題だと思うのです。

 伊藤純郎名誉教授の書かれた「航空特攻隊 空に散った信州人」は、国家ではなく長野県という枠を構築することで、戦争遂行の流れで語られがちな航空特攻から、隊員一人一人の生を見つめることを可能とした良書であるとお勧めします。そして、国民に絶対死を命じるような「国家」の再来こそ、私たちが阻むべきものであることを自覚させてくれました。

 「航空特攻隊 空に散った信州人」は四六判223㌻、1540円。発行・信濃毎日新聞社。

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