「泥縄」を地で行く「学校探鉱隊」。国の発想に長野県、まっさきに取り組む
泥棒をつかまえてから泥棒を縛る縄をなう、という段取りの悪さを象徴する「泥縄」。太平洋戦争下にあった1943(昭和18)年、政府は8月27日、地下資源緊急開発措置要綱を閣議決定します。重要鉱物の国内自給体制強化促進のため、官民の技術者や学校職員、学生を動員して、未開発鉱山の一斉調査をするというもの。戦局が悪化してきてから鉱山開発という、まさに「泥縄」の決定でした。
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太平洋戦争開戦前、資源は南方占領地から運べばよいとしていた政府、軍ですが、もともと陸海軍優先に割り当てられて民需用は既に不足していたほどの輸送船が、ガダルカナルやソロモンの戦闘、さらに船団護衛の貧弱さもあり、甘い戦前の予想をはるかに上回るペースで次々と撃沈されていきました。最重要の石油にしても油槽船不足で南方から予定通り運べない状況で、アルミの原料のボーキサイトも既に占領したビンタン島で優良なものが採掘されていましたが、これも同様に必要な量を運べませんでした。
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そんな中、鉄鋼やアルミなどの原料を国内で何とかできないかと決められたのが先の閣議決定です。表題写真と次の写真はこれを受けて、長野県内政部長がまずは地下資源開発講習会を開くため、長野県の地質の権威者であり土木部に在籍していた八木貞介さんを講師として派遣してほしいとの依頼文書。講習はとりあえず教員向けで、長野工業学校(現・長野工業高校)で9月16日から18日、岡谷工業学校(現・岡谷工業高校)で9月20日から22日に行うとしました。
また、長野県でも調査に向け、改めて「学徒動員地下資源開発調査要項」を定め、具体的に学生らの協力も得て鉱物分布状況を調べると目標を定めました。
この長野県の取り組みは、全国的にみて最も早い方だったようで、情報局編集・発行の「写真週報」第293号(1943年10月13日発行)に見開きで紹介されました。
記事によりますと「いち早く長野県では、郷土の地下資源をできるだけ早く国家のお役に立てようと、県下男女中等学校112校5万3千の学徒を動員し、各学校ごとに担当地域を定めて大規模な鉱物検査、地質調査を行うことになった」ということで、「県ではまずその準備として資源開発講習会を開き、指導に当たる各中等学校の先生たちの基礎的な知識を深め…」などと説明していて、座学と現地実習を実際に行った様子が分かります。
当人たちは、一生懸命だったろうと推測できますが、成果がどうなったかは今のところ、不明です。調査が実際に行われたかも含め、今後調べていきたいと思います。
一方、政府はこの年6月、既に「学徒戦時動員体制確立要項」を決定しており、9月には「国内体制強化方策」で飛行機増産などを決めていて、実際には将来の鉱山開発よりも、目前のあるもので生産する方向に学生が振り向けられていったであろうと想像できます。