徴兵制があった戦前、甲種合格、くじにも当たって入営し2年間すごし満期除隊となった男達の悩みー除隊みやげ
大日本帝国憲法には兵役の義務が刻まれており、数えで20歳になる男性は、故郷で徴兵検査を受けました。大日本帝国の徴兵制度では、平時においては、実際に兵営に入って2年間、兵士としての訓練を受ける「現役兵」は甲種合格者からくじ引きで選ばれた一部の青年でした。
そのため、入営の目前や入営の日となると、地元では親類縁者や在郷軍人会の偉い人まで集まるなどして、盛大に送り出していました。そして迎えた満期除隊。現役を終えた青年たちを待って居るのが除隊みやげを販売するお店でした。
杯、徳利、ふろしきやお盆など、さまざまなモノを取りそろえたカタログを色刷りで作ってありました。「満州凱旋・除隊記念品ご案内」とあるので、1931(昭和6)年9月18日から始まった満州事変が終わった1933年ごろのものでしょうか。
こちらは、長野県の松本市にあった歩兵第五十連隊の兵士が除隊記念に作ったとみられる杯です。シンプルで安価に済ませたのでしょう。
こちらは少々奮発したもので、色合いがきれいです。
地域の有力者の蔵などからは、常にあいさつに送られたのでしょう。こうした杯の、さまざまな部隊のものがごっそりと出てくることがあります。
もう一つ、こちらは仙台市の会津や物産店。朝鮮と満州に駐屯していた部隊向けのカタログです。
朝鮮の駐屯部隊は満州事変勃発と同時に朝鮮国境を越えて中国(満州)に入る手はずでした。しかし、国境を越えて兵を動かすのは天皇の命令が当然必要でしたが、無視して国境を越え、政府も当初、押さえたものの、出てしまったものは仕方がないとして臨時軍事費を追認します。天皇も最終的にすべてを追認して陸軍をほめてしまい、中国との対立が解消される道を塞いでしまいました。これはそんな歴史も刻んでいるカタログとなります。
ちなみに松本市の歩兵第50連隊は上海方面から満州へ転戦して、戦闘に参加しています。こちら、そんな過去を伝える凱旋記念杯です。
こうした品々を自腹を切って調達し、挨拶状とともに配ったのでしょう。こちら、そんな商品を注文したらついてきた挨拶状でしょう。
こうしたことは習慣として行われていたのでしょうが、除隊兵の過程は、そうではなくても働き手を2年も取られているわけですし、軍隊の俸給などは微々たるもので、入営生活で消えてしまうぐらいです。そこで、長野県北部の下高井郡では1923(大正12)年、郡内の全町村の申し合わせで「除隊兵の土産廃止」を申し合わせ「万一配らるる方があっても決して受けないこと」と厳しい姿勢を示します。
この1923年10月1日という日付、実は関東大震災から一か月のこと。長野県での被害は軽微でしたが、横浜の壊滅で生糸の輸出が滞り、面倒なことになっていた時期でもあり、タイミングとしては悪くなかったはずです。
実際、先に示したモノは満州事変絡みのものでした。やはりモノやカネに余裕が無くなる前の、日中戦争初期ころまで続いたのではないかと推定します。ただ、配布はなくなっても部隊で記念品を作ったりすることもあったのでhないでしょうか。これも、一つの軍事と庶民のかかわりの姿でした。