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残り時間を告げられるということ

今回も告知の話が続きます。
お辛い状況の方は、気持が落ち着いているときにご覧ください。

前回、父はガンと診断されましたが「原発がわかれば治療できる」という医師の言葉に希望の光を見出して帰宅しました。
そして5日後、再び4人揃って病院に向かいました。
父は一日に数回、強い倦怠感と発熱を繰り返すようになっていました。


1.愛のある計画

4人部屋の窓側に父の居場所が用意されていました。
病院では入院するとまず、アナムネと言って、これまでの経過や日常生活についてさまざまな情報をとります。
挨拶に来てくれた主治医の先生2人は男性と女性で、どちらも30代か40代、寝る間を惜しんで勉強していそうな印象でした。

そして担当の看護師さんとも挨拶を交わし、これからたぶんアナムネ聴取が始まるんだろうなぁと思っていると…
廊下の近くにいた私に主治医の先生が声をかけてくれました。
「ご家族にだけお話したいことがあるんですが。向こうの部屋でよろしいですか?」と。
またフッと胸を何かがよぎったような気がして、私は急いで叔母と夫を手招きで呼びました。



5~6人が入れる小部屋の奥に主治医の先生2人横に並んでが座り、その向かいに私と叔母が、後ろに夫が座りました。
(なんだろ?なんだろ?)
また全身がバクバクし始めました。

先生はひとことめに言いました。
「お父さんの病気は〇〇がんです」
そして内臓の絵を書きながら父の病状を説明し始めました。
(え、原発がもうわかってる…?!)

どういうことだろう?!と思いながら、医師の口から出る一語一句を逃さないように懸命に聞いていました。
そして一通りの説明を終えた後、医師は少し間を置いて私の顔を見て言いました。
「残念ながらこの状態は治療する方法がありません…」



(え・・・)
ピーンと空気が張り詰めたのがわかりました。
私の左隣で、腰が曲がってうつ向いて座っていた叔母が「え?!治療する方法がない…?!」と驚き、小さな目を見開いて医師を見上げました。

それから医師はなぜ治療法がないのか説明し始めました。
(※17年経った今は治療薬が開発されています)
私は意識が遠のきそうな感覚の一方で、納得できるまで質問を繰り返しました。

そして、なかなか言い出そうとしない医師に私は尋ねました。
「余命はどれくらいですか…?」
「…はっきり言えないんですが、おそらく数ヶ月です」



今後の進行しだいで、2~3ヶ月から場合によっては半年…ということでした。
(そうか、この告知をするための入院だったんだ)
(父が自暴自棄になって唐突な行動に出ないように、あえて入院してから告知にしたんだ…)
(原発のガンは、もうわかっていたんだ…!)

泣き崩れた叔母を夫が後ろから支えてくれていたのが有り難かった。



2.告知するかどうかよりも

医師が尋ねてくれました。
「お父さんは告知を希望していらっしゃるようですが、私たちからお話しますか?それともご家族から話されますか?」

私はそのとき、なぜか迷いがなかった。
まるで答えを準備していたかのように、自分でも驚くほどキッパリと返事をした。
「私たちから話しても信憑性が無いので父は信じないかもしれないので、先生から話してください。その代わり、その日から3日間は家に外泊させます。私たちで看ます。」

翌日、父に伝えることになった。
部屋を出てすぐに父のところに行くことができず、私たちはしばらく廊下で立ったまま狼狽していた。
手摺りにつかまりながらうなだれる叔母に掛ける言葉がなく、背中に手を当てることしかできなかった…


告知するかしないかが問題ではないと思った。
告知の後、支えになる人がいれば告知をすればいいし、支えになる人がいないなら告知しない方がいい。
その人を取り巻く人間関係しだいで、結果は良くもなり悪くもなるだろう。

命の宣告を受けた人がどんな心境になるか、少なからず看護師の経験から知っているつもりだ。
そして父の性格を考えると、それがいちばんだと思った。



3.時間が与えられた

今の日本では、毎年約100万人がガンを発症しています。
ということは、家族を含めると毎年少なくとも100万人以上の人が、こうした想いを経験していることになります。

こんなアンケートを見たことがあります。
医師に対する質問です。
「あなたがもし病気になって死ぬなら、どんな病気がいいですか?」
さまざまな病気を診ている医師が人生の最期に選ぶ病気は、どんな病気なのでしょうか?

それは「ガン」なのだそうです。
その理由の多くは「人生を整理する時間があるから」。

そう、命の残り時間を告げられるということは
唯一、『時間が与えられる病気である』ということ。

その時間に何をして、何をしないか。
そして何を消去し、何を残すかー。


時間が限られたからこそ、本当の自分に気づくことができる。
その時ようやく人生を取り戻し、たとえ病気であっても健全な生き方ができるようになるのかもしれない…
と思います。



「がん治っちゃったよ!全員集合!」という団体があるのをご存じでしょうか?
コロナ以降規模を縮小していますが、以前は全国各地でイベントが行われ、数百名~千名くらいのガン患者さんが集まっていました。

実際は、“治ったかどうか”が問題なのではなく、自分自身で治そうとしているかどうかが問われているのだと思います。
発起人の杉浦貴之医師は28歳のとき腎臓がんで余命宣告を受け、それから20年以上生きていらっしゃいます。

直接会って聞いたわけではありませんが、おそらくそこに集まっている方々は、“生き方を変えた人たち”が集まっているのだろうと思います。

今までより家族を大事にしたり
今までより自分を大事にしたり
仕事より楽しみを優先したり
得ることより想い出を大切にしたり
物質的なものよりも、目に見えないものを大切にし始めたのではないだろうかと思うのです。

中には、行動で表す人もいるでしょう。
食べるものが変わった
毎朝、歩くようになった
お参りするようになった、など。
結果的には、その行動を通して、考え方や在り方が変わったのだろうと思います。
杉浦医師は「仮面を脱ぐことだ」とおっしゃっています。



4.身体からのメッセージ

少し前に「カラダには予知能力がある」について書きました。
そしてカラダは自分本体にメッセージを送ってくれています。


杉浦医師がおっしゃっている“仮面”とは、1800年代の心理学者カール・グスタフ・ユングが提唱した「ペルソナ」のことです。
聞いたことがあるでしょうか。

仮面を付けていることが悪いわけではありません。
円滑な社会生活を営むため、すべての人に必要な仮面です。
ただ問題となるのは、多くの人が「仮面の自分」と「本来の自分」を混同してしまっていることです。

私たちがそうした社会向けの仮面をつけているのは、その役柄を演じることで何かを得るため、もしくはより良い社会関係を維持して生きやすくするためです。
そして、その自分を自分自身だと思い込んでしまうことで、“本来の自分”を押し殺して生きていきます。
この状態はとても危険であると、ユングは警鐘を鳴らしています。


身体は、そうして盲目になってしまった自分に(そのままじゃダメだよ)(そうじゃないよ)(早く気づいて)と無言のメッセージを送ってくれているように思います。
だけど私たちは、身体という内なる神を知らないために、無視し続けて生きています。

そうして、いよいよ命の残り時間を告げられたとき…
初めて本当に大切なものに気づくのではないでしょうか。
本当にやりたいこと
本当に好きなこと
本当に大切だと思うこと…



ということはー

余命宣告を受けるということは、ある意味肯定的に受け取ることもできます。
それまでの自分のままだったら、いずれ後悔することになっていたかもしれない。
もしかしたら死ぬ直前になって気づいたかもしれない。

ならば身体が病気をもってして、盲目な自分に気づかせてくれたとしたら、それは有難いことかもしれないなぁと思います。

とても不思議ですが、そうして「自分自身と仲良くなる=病気を受け入れること」ができた人は、急激に悪化しなくなります。
たとえ悪化したとしても、あまり恐怖を感じないので、緩やかな経過をたどります。

そうして自分自身に気づいた人だけが、ほんの少しずつ最期の時を遠ざけることが許されるのだろうと思います。



5.私だったら

もし私が余命宣告されたらどうなるだろう…?
きっとすべてが崩れ落ちると思います。
だけど、不謹慎かもしれませんが、どうすることもできない衝撃を受けた自分自身がどのように変わるのか、どのように世界の見え方が変わるのか、実はちょっと楽しみのような気もします。

私は何を大切に思うだろうか…
私は誰と過ごしたいだろうか…
私は何を残そうとするだろうか…

いや、今ガンじゃないからそんなこと言えるんだとお叱りを受けるかもしれません。
ただ・・・

何歳で死ぬか、自分で決めることはできます。
そうすれば、それまでに何を達成し、10年後は、5年後は、3年後は…とさかのぼって、今何を選ぶべきか見えて来るような気がします。

私たちは何となく、自分は長生きできるように思っていて、死が他人事になっています。
こうして命の時間を限ってみることで、本来の自分を取り戻せるかもしれないなぁと思います。

皆さまはどう思われるでしょうか


もやもやした気持ち、話してみませんか。


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