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読むのが遅いけど、たぶん、いいのだ。
これは、読むのが遅い僕の奮闘記と、乗り越えるまでの気づきの話。
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進んだのが進学校ということもあってか、
中学に上がると、国語の授業はカルチャーショックだった。
「じゃあ教科書の130ページから135ページまで。読み終わった人は教科書置いて」
先生の一声で、皆一斉に黙読を始め、読み終わった人から教科書を置いていく。
周りが続々と読み終える中で、僕は周りの様子を見て、ある程度のところで教科書を置く。
僕はその制限時間内に、最後まで読み終えられることはほとんどなかった。
読み終わった直後の「じゃあこの問題を、、、」という先生の言葉。
僕は、いきなり当てられないことを祈るばかり。
授業が進行する隙に、残ったページをなんとか読み切ろうとするのだが、
授業も聞かなくちゃいけないので、文章に集中はできず、内容が頭に入ってきてくれない。
国語のテストも同様だった。
時間制限がある中でやりくりしなければならない。
全部をざっくり読み切るか、いっそ大問ごと捨てるか、いつも葛藤していた。
当然、国語の成績は壊滅的だった。
全て点数化される学生時代、本への苦手意識は強まっていった。
ただ、不思議な巡り合わせで、今ではこうして書く習慣が続いている。
読むのが苦手でも書くことはできるんだなあ、、、と。
書くことを続けていると、読む力も次第に上がっていく。
また、詩作の甲斐あって、昔より文学を楽しめるようにもなってきた。
着実に、少しずつ、本への苦手意識は減ってきている。
最近は、義務感もなく図書館へ向かうことだって増えた。
僕の学生時代しか知らない人からしたら考えられないような生活だ。
ただ別に、読むのが早くなったわけではない。
いまだにひとつひとつ頭の中で音読しながら読んでいるし、
1ページ読みきる前に集中が切れてしまうことだってある。
できることならもっと早く読める人になりたかったのだが、
色々と奮闘した末に僕が思うのは、
これ以上読むスピードが速くなることは、恐らく、ない。
今の「ゆっくり音読ペース」が僕の限界速度なのだと思う。
昔はコンプレックスが激しかったので、
読む速度が上がらないことは認めたくなかった。
だけど、今となっては、そこまで悲観しているわけではない。
読むのが遅いことは、一概に悪いことでもないように、思うようになってきたのだ。
読書は、散歩のようなものだと思う。
本を一文ずつ追うごとに、
僕の頭の中には、
踏み締めた土から芽が出るように、
木漏れ日の森を歩くように、
情景が広がっていく。
僕の進むペースはとても遅い。
のんびり、
一文ずつ、
噛みしめながら読んでいる。
それは森を進むのに似ている。
散歩道に沿って流れる小川。
小川の水をぼんやりと眺めてみたり。
落ち葉を掻き分けてみたら、
隠れていた根っこが出てきた。
空を見上げてみたら、
木漏れ日がきらきらと眩しい。
横に伸びた枝から、
白いキノコが生えている。
このように森の散策をしていると、
ふと立ち止まっていることがある。
そこから世界の理に気づいたりすることだってある。
本の中ではとっくに展開が進んで、
茂みからリスが飛び出しているのに、
僕は白いキノコにまだ夢中だったりする。
キノコ繋がりで今晩の夕食に想いを巡らせたりする。
目は文字を追っているのに、
頭は白いキノコのことでいっぱいである。
僕が読むのが遅いのは、きっとこういうカラクリなのだろうと思う。
読書は散歩のようなもの。
森の散策のようなもの。
作者の思い描いた世界を、そのまま再現できることはない。
でも逆に言うと、僕の頭の中には、作者とは別の世界が広がっている。
文字で描かれていない風景まで補なって読んでいるようなのだ。
じっくり時間をかけて、濃密に、“自分なりの散策”を楽しんでいる。
だから読むのが遅い。
これまで若さゆえの好奇心からか、
色んな森を巡ることに憧れてきたが、
一方でのんびり歩かないと見えてこない景色だってあるようで。
だから多分いいのだ、読むのが遅くても。
まあ、
資料を読むのが遅かったり、
論文をたくさん読めなかったり、
実生活ではなかなか不便なのだけど。
そういう苦手なことは誰にだってある。
仕方ない。
書くという面においても、読むのが遅いのはあまり問題ではない気がする。
僕の書く力はまだまだだと思うが、どういう作風に向いているのかについては見えてきた。
歩くペースが遅いからこそ僕は、ゆっくり一文ずつ噛みしめられるような文体を好む。
例えば絵本。
あれはそもそも速く読む前提で書かれていない。
一文一文、しっかり踏みしめながら、絵本の世界に浸りながら、余白を想像しながら、ページを捲っていく。
いつか描いてみたい。
他には、詩。
詩は朗読だってされるほどだ。
ゆっくり踏み締めなければ通り過ぎてしまう情景がたくさんある。
子ども向けの本。
いつか書いてみたいと思う。
噛み砕かれて読みやすいエッセイ。
どうでしょう。
今も読みやすかったりしますか?
こういったジャンルにおいては、読むのが遅い特性が、むしろプラスに働く時だってあるのではないかと思っている。
(ひとつ断っておくと、読むのが速い人は絵本や詩に向いていないと言いたいわけではない。足が速くてもゆっくりとした散歩を好む人だっている。)
長いこと僕は、
本や文学というのは、読むのが速い人たちにしか許されない世界だと思っていた。
しかし実際は、どんなペースで読んだって、なんなら読み終わらなくたっていいようなのだ。
だって、散歩なんだから。
むしろ、じっくりのんびり歩けるのもある種の才能ではないかとさえ思う。
この解釈は自分に都合が良すぎるかもしれないが。
一ページごとに考え事にハマりこんでしまい、全然読み進められない。
白いキノコから抜け出せない。
だから白いキノコの詩を書く。
そういうのも、本の楽しみ方なのではないかと思う。
森の全てを楽しむことは、はじめからできない。
なら、心行くまで堪能できればいい。
おまけに、
本当の森の散策は、車で帰る手間も必要だけど、
言葉でできた森は、ただ、本を閉じさえすればいいのだ。
文学は案外、受け皿が広く、懐が広いものなのかもしれない。