不登校で再考する子供の評価<その1>BodyとMind
■不登校の長女(現在11歳)からの親のアンラーニング
長女が4年の春ぐらいから不登校になりました。少し経緯を付け加えると、朝起きれなくなる、学校行きたくないセリフの多発、お腹が痛くなるなどの身体的な不調、やや躁鬱的な感情の起伏、などなどがあって、結果として学校を休みがちな期間が増えるという状態でした。最終的には全く行けないので不登校。しかし、漢字三文字で片付けるにはいかない、それはそれはメチャクチャに家庭というか親というか小生&相方に物理的・精神的に負荷がかかった時期でした。そんな状態が続き、遂にこの年の夏から、「こりゃ、学校行かせるの無理か?」と覚悟を決めてフリースクールを探しにいき始めたのだった。最終的には、自宅最寄りに公立(松本市)のフリースクール(松本市では中間学校という名)を見つけて、9月ごろから通うことになったのでした。
義務教育の小・中で育った両親(小生&相方)ですので、不登校に対しての知見もゼロ、ましてや、フリースクールの存在や機能に関しても疎く、具体的にどこに該当する学校(というか場)があるかの基本情報もありませんでした。当然ながら、過去の知見は役に立たず、「そもそもフリースクールって何?」ぐらいからのリスタートとなったのでした。これはですね、つまり、学校の機能に対しての先入観へのアンラーニングであり、新たな事案(不登校対応)への強化学習が必要な境遇だったってことです。
■学校での学習と評価、家庭での生活と評価
さて、今回はこんな経緯から見えてきた課題を語ってみようと言う第一回です。まずは不登校への親の気持ちの整備についてです。
不登校という現象、それも自分の子供のケースとなったわけですから、やや気持ちがざわつく、不安が高まるのが普通でしょう。確かに、当世の不登校の増え方はなかなかの勢いなので、レアモノ感はほとんどありません。
とはいえ、不登校を親が受容するためには過去の経験にはない視点が必要です。「嫌なら、学校は行かなくていいんだよ」、「今の義務教育は7割の子供たちのために設計された平均値尊重カリキュラムだから」とか、表面上は物分かりの良い、時代に対応できている親っぽいセリフを吐きますが、内心は(行けたら学校に戻るのが望ましい生活だ)、(今後の中学や高校を考えると、選択肢が狭まるのは不利だろう)とか沸々と湧き上がってくるのです。親の過去、小生の持っている少ない人生記憶を軸に不登校という現象を扱おうとします。そのままではどう足掻いても、理性的な「不登校の肯定」と、情緒的な「不登校へのとまどい」には大きなギャップがあります。
ここからが本題への突入です。大袈裟ながら史実に沿っていくと、小生はこの理性的な肯定感で、「いい親」像、で自分の背中を押しながら娘をフリースクールの通わせることを決めたのですけど、やはり、前述のギャップは抱えたままでした。しかし、どうなることかと思いながらの最初の数日で気がつかされたのが、子供の表情の明るさが戻ったことなのでした。いや、前の表情はあんなに暗かったんだ、という思い出しだったというべきでしょう。「あ〜こりゃ、いかんかった」、率直に元の学校への素早い再登校を願っていた当初の自分だけでなく、自称「いい親」像でその後の対応をしていた自分にも猛省しました。細かく観察すると、声量も大きくなって声の張りもある。おまけに、睡眠がよくなったせいか肌の色艶も良くなっている。ちょっと前は、声もしょぼかった、肌色もダークだったことにも気がつけなかったわけですよ。
今は、もうフリースクールでは好きなことしかしてません。我が子の場合はPC(学校にもあるし、家では親のものを貸与)で小説を書き始めています。これも目をキラキラさせてやっているんですな。目の奥まで澄んでいる感じが凄いと感心しています。ビデオ・ゲームではここまでの眼力はでないのです。で、またしても小生の「子供の学びへの評価」のアンラーニング体験が続くのでした。現在も継続中だよ。
■もう一つの親視点での評価基準を持つ
ということで、この子供の身体反応からの学びが強烈だったってことなんですけど、せっかくなので生活思創としてまとめてみました。ポイントは、学校の評価基準と対立せずに、これとは全く異なる基準を子供に対して持つことです。不登校は学校を否定する概念にしちゃうと、話は善悪から抜け出せなくなるって感じたからです。もちろん、それでいて親が不登校である事に意味を見出せるものとして描いたモノです。もし、登校も・不登校も両立する視点で捉えられるなら、親が持ちやすい理性と情緒のギャップは生まないで済みます。
<図表2>の左側は、文部科学省のHPにある小中学校での学習の評価ポイントです。3つあって「知識・技能」、「思考・判断・表現」、「主体的に学習に取り組む態度」です。一方の不登校での子供の存在の評価ポイントも3つ。「目の輝き」、「声の響き・張り」、「表情の明るさ」にして設定してみます。ただし、あくまでも地方都市の一家庭の一時例ですので、それぞれのご家庭で特別部会(文科省に揃えてみました)が必要かと思います。ご留意ください。
こうやって眺めると、学校のような集団学習ではテスト計測や成果物を通じた客観的な行動が評価基準になっています。分かってたけど。MindとDoingの波長で教室内の世界内部を把握しようとしているわけです。そこに対峙するように、我が家限定とはいえ、多くの親が納得してくれるであろう親の子供の評価はまずその子供の存在そのものにあります。つまりBodyとBeingになると思うのです。今ここに楽しさとともに存在し、体からの肯定感がオーラとしてでているかどうかがポイントです。
だからって、このままの不登校でOKと言う気もありません。本来は身体あっての知能であり、今日の楽しさの延長線上に未来を築くための知識習得があるはずでしょう。BodyあってのMind、BeingあってのDoing。BodyのみMindのみの人間はあり得ないはずです。さりながら、分離はますます顕在化しつつありますね。昨今の不登校の子供増加には不穏さを感じております。大人もそうだけど、子供の方が素直だから人として引き裂かれた状況に拒否症状が早く出ているだけってことかも。
なんでこういうBody-Mindの分離した状態になったのでしょうか。大人たちにSoulが足りないってことかな
Go with the flow.