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不登校で再考する子供の評価<その2>評価できるという信念

■子供の学びを評価する2つの視点

「不登校で再考する子供の評価」の第二回目。学校がMindとDoing、親子がBodyとBeingをテーマに評価視点を設定しているという話でした。本来は一人の人間なはずなのに、ボディとマインドを分けてしまっていることに人としての不自然な姿を感じる、、。だけど、このギャップが即解消される世情とは思えないので、なんとか折り合いをつけていかねばならないと覚悟しています。まあ、そのための方便こそがこのNOTEで書いている生活思創ってことか・・・。

 「変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ」ラインホルド・ニーバー

スケールは小さいけど、心底そう願う。

さて、学校も親もそれぞれが掲げる「子供の学びを評価する視点」を持っているまではいいとしても、その評価の特徴は正反対。

図表2

前回の比較図<図表2>を、要素で対比させたのが<図表3>です。

図表3

<図表3>は円の図からマトリックスにしてみたものです。サポート側の世界観と信念を加えてみました。現在の義務教育の評価観点では、良くも悪くも量的です。スコア化できる前提で設定されてます。管理が一元化しやすいんですね。カリキュラムも時間割に沿ってますし、テストもスコアだし、やや曖昧さのある行動も有り無しに置き換えればカウントしやすいものとなっています。すると、「一律実施ができる=教える側が誰であっても任せられる」、かつ「平均値からの客観的(相対的だが)なフィードバックができる=保護者側への説明も公平さが担保できる」、これを文科省、つまり「国という単位の意思を上位下達でマネジメントできます」。3つの「できます」は、関係者一同納得の素敵な仕組みではないでしょうか。 正確には、仕組みだった(過去形)。この設定になると、義務教育では入口のグランドデザインと、出口の評価システムが重要になります。二箇所で抑えるってことです。


■サポート側の方法論、そして信念の違い

 やや話は脱線しますが、義務教育は国の毛細血管です。そもそもの「教育」の成り立ちが、古参メンバーが権力を獲得した時に、その体制を「よし」とするために、新規メンバーへの啓蒙活動を施す手順であり、世界共通の標準パターンです。

 「この体制をよしとした上で、自由闊達に大いに学んでください!」ってことだからね。たまに、この「よし」の何かが微妙になると、毛細血管のところまでやってきて、教科書の中身がどうなのかや、指導方針などに関して揉めたりします。国の考える健全な体を保ち続けるためには、毛細血管への血流は滞るわけにはいきません。壊死しちゃうからね。そういう意味では、不登校は国にとっては国体の健康課題とも言えます。一連の不登校の現象を見ると、もう毛細血管の問題というより周辺細胞が劣化して、循環器系が機能しなくなってきている感じですけど。

 これは「学校の持つ世界観=入口と出口でマネジメントできる」が制度疲労を起こしてるわけです。っていうか、2000年ぐらいからの情報革命連発(IT進化とAI実装)から、「変わるまい」とする旧来のパワーを「変わりますよ」とする新興のパワーが上回ってきただけの話なのだった。
 万物流転。平家物語は教科書に記載されてなかったっけ?

 話を戻す。

 不登校をきっかけに、人間から分離してしまったMindとBody、そして、Doingと Beingを自ら拾っていくことになった親は途方に暮れながらも、義務教育が採用する入口ー出口システムの真逆をとることになります。なぜなら、学校教育が押さえたはずの二箇所の中身が窒息気味なのですから、親役が一人の人間を救うにはスルーされている子供のBodyとBeingを補完する場を提供するしかないからです。さしずめ、長女補完計画・・・笑えない。

 その真逆な世界とは現場の観察です。となると、どうしても親と子がその場を共有できることが重要になります。時間が取られる訳ですな。つまり、サポートする親もBodyとBeing を差し出さねば補完が完了とはならないのです。全ての家庭はそれぞれオリジナルの成り立ちをして、独自な社会との折り合いの仕方で回っています(それを生活と呼ぶ)。すべてがケース・バイ・ケースとさえ言えます。 

たぶんですが、小生のように不登校への関心に正面から向き合える境遇にあるほうが、現状ではレアかもしれません。この不登校が家庭に与える物理的な負荷は、軽くはないのです。心情的に小生が被害者意識なしに向き合えるのは、大人たちが共同体として解消できなかった「BodyとBeingへのサポート」不足が目の前に現れていると思えるからです。自分も、大人として引き起こす側にイッチョカミしている社会的な課題じゃないかと・・・、ここにでは指摘だけにとどめます。こうなると俄然、問題が大きくなります。大人全体の生き方自体が行き詰まっている可能性が高い、いや、ほぼほぼ行き詰まり済みではないでしょうか。お金と格差、自由と時間不足、情報社会とフェイク、キャリアと自己責任、などなど。これらの先には人類としてのイシューがありそうな気がするのだけど、娘の義務教育終了までの間には解決するとも思えません。小生も限られた人生なので、折り合いつけねばなりません。今回はパンドラの箱は眺めるだけにしておきましょう。


 で、話はBody とBeing のメタ・テーマを前提に、「子供の学びを通じて考える親の成長」に展開していきます(予定)。図表3の信念に掲げる相互変容の話が次回の中心お題。

Go with the flow.






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