正しさの衝突から、私たちが学ぶこと
新型コロナウィルスが日々拡大することによって、小さなものから大きなものまで、なんか衝突に囲まれて暮らしているように感じます。
PCR検査を増やすべきだ、いや増やすべきではないのだ。
マスクはいる、いやマスクはいらない。
家からでるな、いやどうしても仕事に行かなくては・・・。
究極的には、人命か?人か?という二項対立になっている。
今日のニュースでも、アメリカのトランプ大統領が、秋に感染拡大が来ることは無い、と言った直後、専門家が同じ演説台で、秋に第二波がくることを確信している、と全否定している場面があった。
立場や俯瞰の高度や角度によって「正しさ」が違うと衝突することになる。
医療の立場から言えば、医療システムを崩壊させない感染拡大を防ぐことが正しさで、政治家の立場から言えば、経済システムを崩壊させないことが正しさになる。
「先生」と呼ばれる職種がいくつかある。教師、弁護士、医師、政治家などがそうだ。この「先生」という呼び名は、「何かをしてもらう」職種に対してリスペクトや場合によっては媚びを含めて呼ばれる。
教師は「教えてもらう」、弁護士は「助けてもらう」、医師は「治してもらう」、そして政治家は何かというと、あまり多くの方は気づいていないが、
「食わせてもらう」
だ。平穏な日常では政治家に「食わせてもら」っているという意識の方はほとんどいないと思う。タカリの既得権にしがみついている人たちが「先生」と呼び、せっせと選挙活動にいそしむのだ。
ちょっと話がそれてしまったが、この衝突した時にどうするか、大事なことは何か、はとても大事だと思っている。なぜなら民主主義を成熟させる貴重な機会だからだ。
コミュニティを運営していると大なり小なりこういう「衝突」は日常茶飯事だ。みなさんも経験をしていると思うが、高校などの文化祭で何をやるか?などをクラスで話すと、「お化け屋敷」だ、「模擬店」だ、「演劇」だ、と衝突した経験があると思う。ここでもそれぞれの立場から来るいろんな「正しさ」を背景に衝突している。
ご飯を食べるか、水を飲むか、どちらかの判断をしなきゃいけない時に、ずっと悩んでいたら死んでしまうので、どちらかの判断をしなければいけない。企業であれば社長であるし、プロジェクトであれば、プロジェクトリーダー。国であれば与党総裁(内閣総理大臣)になる。
アップダウンにしても、ボトムアップにしても、最終決定権限者(もしくはシステム)が存在する。
大事なのは、どのような決定がなされるにしても、
・それぞれの立場から、意見表明ができること。
・反対意見を批判せず、提案型でいくこと。
・マイノリティが叩かれない事。
・意と異なる決定がなされたとしても、違いを受け止めたうえで、足を引っ張ることなく、共に行動にあたれること。
だ。
そして、その意思決定がどうだったかについて、適切な「情報公開」によって議論し、必要があれば軌道修正できること。
こういうサイクルを何度も経験して、その一連のプロセスに信頼性が高まって、コミュニティが成熟していく。
そういう意味で行くと、今の状況は少々悲しい気分になる。
叩かれまくるし、足は引っ張られるし、情報公開は不適切。
最悪なコトは、
・溝が生まれ、分断ができること。
だ。
市民の成熟度というのは、決して、高邁な理論をみんなが語ることではないし、全員が一致することでもない。双方が異なることを尊重したうえで営まれることを引き受けられることであって、決して相手を打ち負かすことでも論破することでもない。(※私は「論破」という言葉が大嫌い)
昨年のラグビーワールドカップで広がった「One Team」という言葉。このコロナ禍の中で改めて使われ始めた。
「One Team」でこのコロナの困難を乗り切ろう、という意味合いだと思うが、少々「One Teamで自粛」で自粛しない人は「One Team」をないがしろにする裏切り者!みたいなニュアンスで叩く武器に使われている場面も多く見受ける。
「One Team」よりも「No Side」の方が民主主義の熟度を上げるキーワードかもしれない。
この日々の「正しさの衝突」から、「One Team」に加えて「No Side」の精神もしっかりと学んでいきたいと思う。
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