正信偈26「三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引 一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」
正信偈 26
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
私たちが自分の心に決めて「仏さまを信じよう!」としたときの信じ方を、道綽禅師は三不信と言いました。信じる心に淳心・一心・相続心という三つの心が無いことを三不信と言います。淳心とは仏さまのはたらきをそのまま聞きいれる心、一心とは仏さまのはたらきを受け取ったと疑いの無い心、相続心とは受け取った仏さまのはたらきが何にも邪魔されずに続いていく心です。私たちが気合を入れて仏さまを信じようとしたときには必ずこの三つの心が無いから三不信と言います。
本願寺の第八代門主である蓮如上人は全国の門弟宛てに出したお手紙『御文章』の中でよく「弥陀をたのむ」と言っています。これを「弥陀を頼む」と読んでしまうと、先述の三不信、つまり自分から信じようとする自力の信心になります。「頼む」というのは自分の方から先方にお願いすることです。動かない神仏にこっちから呼びかけることが自力です。
「弥陀をたのむ」と言ったときの「たのむ」には正しくは「憑む」という漢字が充てられます。これは現代では馴染みのない言葉だから漢字を見ても意味が分かりませんね。例を挙げます。あなたは今どこでこれを読んでいるでしょうか。椅子の上でしょうか、部屋でしょうか、屋外でしょうか。いずれにしても、今、あなたが立っている・座っている、椅子・床・地面に恐怖を覚えているでしょうか。今にも壊れて床・床下・地中に落ちてしまう不安がありますでしょうか。おそらくは、無いと思います。今あなたを支えているもの・椅子・床・地面を信じようと思わなくても信じているからです。「憑む」とは不安の起こりようが無いくらいしっかりしたものにこの身を任すということです。頭で考える前から勝手にこの身を任している、この在り方が「憑む」です。
自分の心で意識して「信じよう!」とする間は「憑む」ことはできません。自分の心で作り出す物は信用なりません。決心はブレブレ、決意は定まらず、自分との約束は簡単に破ります。禁煙だってダイエットだって自分の意識ひとつでできるならもっと簡単なはずです。
仏さまを信じることも自分の仕事ではありません。こっちが作用しないといけないなら不安が入り込みます。「本当にこれで良いのか?合っているのか?」と心配し続けなければなりません。だから、阿弥陀の仏さまは仏の方から信じさせます。でもそれは何かこっちの心を作り変えるようなことでなくして、仏の方が不安の起こりようが無いくらいしっかりとどっしりとしているから、その仏の話を聞いていくうちに勝手に「憑む」ようになります。「いつ誰にどんな話を聞いても仏さんはしっかりどっしりしているから、いつからか不安が無くなった。心配しなくて良いものに足元からちゃんと支えられています。」と心が開かされたときが信心です。三信です。仏さまの心を真受けして、そのまま聞く、そのまま聞けるようにしてもらう、これがありがたいことかなと思います。