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二項怪物 | ブクログブログvol.2(映画) 『怪物』是枝裕和

ある時系列を、母、保利先生(学校)、子供の3視点から丁寧になぞって描写していく作品。

最初の視点できっと、湊の担任保利先生への憎悪、胸糞の悪さが込み上げてくるだろう。

一転して次の視点で、彼の純粋というか気の抜けた感じに驚き、そして申し訳なさが心に染みる。

視界に映る情報だけを消化して、「事実」を拡大解釈してしまう行為が怪物なのかもしれない。憎悪、ネガティヴ、嫉妬、時には愛が、相手の実像を増幅させ、怪物としての虚像を産み出す。それを見て、私たちはそれを怪物だと思う。でも実際は、それを見いだしてしまう思考構造が怪物である。

最初の親視点において、母親自身そして彼女に深く共感する視聴者は、保利先生にサイコパス的な怪物を見いだす。しかし実際にはこちら側が怪物である。

母は湊に「普通の家庭を築いてほしい」と願う。それは母の愛が想い描く夢想の怪物である。他方母の愛ゆえに、それは怪物となり息子は苦しむ。

学校視点では、保利先生が湊と依里の関係性の断片を見るにつれて、湊への疑念を募らせる。彼と視聴者は湊にも怪物を見いだすが、本当は逆である。

子供視点では、このような典型的な構図が突出することはなかった。どちらかというとその構図に囚われ、苦しみ、仲間を見つけ解放される様子が描写されている。しかしところどころにその怪物を生み出す構図の萌芽のようなものは見られた。

アメ、猫の死体。1つの視点からだと、1つの意味のみを持っているように見えるが、実際には複数の意味や文脈が絡まり合っている。地球上に70億人いるのなら、70億の並行世界がある。それぞれがあまりにも距離を持ちすぎると、人々は容易に怪物的に他人を見てしまう。社会を苦しめる問題は殆どがこれが原因ではないか?

おそらくはこの作品は、このように断定的に評価してはならないのかもしれない。私が書いたことは、観たものを私の思考、趣味、言葉を通して反映した、作品の実像以上の怪物である。ニュートラルに言うのなら、個人の解釈である。

一人ひとりが観る世界が完璧には重ならないまでも、我々は同時に歩み寄っていく努力が必要だ。

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