10人との対話
今年はいくつかの挑戦を始めた。
そのうちの一つが、10人との対話。
第1回となる今月、日に数人ずつと話して10人目の対話が終了し、以前のわたしならどっと疲れていたというのに、今日は不思議としずかな感情を味わっていた。
興奮でもない、かといって冷静とも少し違う。
仕事に、プライベートにと何か大きな変化が始まったことを感じながら、でも、慌てているわけではない。
不安に呑み込まれずにいられるのは、ようやく地に足がついたから、足のつく場所を見つけたからだと思う。
足が地面につかない場所でバタバタともがいていた頃は、体力と気力をずいぶん奪われていた。
折に触れ思い出す。
中学1年の時の臨海学校で、わたしはまったく泳げないのに、なぜか泳げるようなふりをして、泳げるメンバーと共に海に入ることになった。
先生はすぐに気づき、翌日わたしは泳げないグループに再編されたが、どうしてあの時泳げるふりなんてしたのだろう。
そしてその後大人になってからも、懸命に泳げるふりをする自分を感じることが時々あった。
泳げるようになりたいまではいい。
でも、泳げないのに泳げるふりをするのはいけない。命に関わる。
「もう無理」と体が言っているのに、「いや、大丈夫でしょ」と体を酷使するパターン、それが自分にとっての「泳げるふり」だった。
そしてやはりこれも、最悪の場合、命に関わるのだ。
センジュ出版を立ち上げてからも、自分の体からの声を無視し続けた。
これは自己虐待というのだそうだ。
そんなことしてる社長の会社なんて、ろくなもんじゃないと今は思う。
大人になるとは体を心を自分で労わることができる、その声に耳を傾けられる、ということだ。
他者に対するのと同じように、自分のことも自分で大事にできる、ということだ。
それはつまり、泳げないなら泳げないと伝えられるということだ。
そして、泳ぎたいなら泳げるように努力するということだ。
泳げないのでも、泳ぎたくないのでもなく、
泳ぎがうまくなるための行動を始めることにした。
これは、体を大切にしながらも仕事のパフォーマンスを上げる勉強と習慣を指している。
興奮でも冷静でもない、緊張でも弛緩でもない、そのあわいに今、自身の足を立て、一歩をあの海に。
いのちを大切にしながら、もっと遠くへ、力まずに。
あなたの目の前の海には今、どんな波が寄せて返していますか?
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