感受性ってなんだろう。
あまりに有名な、茨木のり子の詩。
自分の感受性くらい
茨木のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
一年のうちに時々、ふと頭をよぎることば。
ここに書かれている「自分の感受性」とは一体何を指すのか。
ヒントは、この感受性を自分で「守る」ことができれば、
心はぱさぱさに乾かず、
気難しくなってくることもなく、
苛立つこともなく、
初心は消えかからず、
駄目なことを時代のせいにしない、
そんな自分でいられるということ。
わたしやあなたが、各々守るものは何か。
何を失うと、わたしたちの心が渇き、気難しくなり、苛立ち、初心を見失い、それらを時代のせいにしてしまうのか。
この詩を思い浮かべるたび、この口調のトーンもあって、
守るべきものは自分の矜持や尊厳や気概のようなものだとこれまで思っていた。
なので、この詩を思い浮かべる時の自分は決まって、
精神的な背筋が丸まってしまっている時、自身を鼓舞して顔を上げたい時だった。
もちろん、そうした活力が必要なシーンはこれまでもこれからも多々あり続ける。
けれど今、自分はそうした背筋をキリリと伸ばしてくれるようなことば以上に、
ほがらかな自分の姿の中に、守るべきものがあるように感じている。
ほがらかな自分、ではなく、ほがらかな自分の姿。
「姿」としたのは、姿見に映すかのようにしてしか知ることのできないもの、
つまりその姿を自分で見ることができず、あくまで自身でイメージするしかないもの、という意味合いだ。
自分がほがらかかどうかは、自分ではよくわからないし、
ましてやいつもほがらかでなんて、到底いられない。
時にパサパサどころか、からっからに心が干からびることもある。
気難しいどころか周囲に当たり散らすこともあるし、
初心なんてすぐに忘れてしまい、
駄目なことを時代のせいにも世界のせいにも政治のせいにも、そして会社のせいにも家族のせいにもしたくなる。
でも、そんな時に、自分の姿をじっと思い直したい。
どう見えているのか。
姿見に映すこの姿が、どんな佇まいでいるのか。
ほんの少しであっても、その姿だけでも、
ほがらかに見えていてほしい。
そうした自分でありたい、あろうとし続けていたい。
自分がどう見えているか知りたいなら、周囲の人の表情をよく見たらいいだけだ。
目の前の人が少しでもほがらかな顔を見せてくれるように、
自分ができることを、一つでも。
あなたは、何を守っていますか?
あなたが守りたいものを、守っていける日々でありますように。
#今日の (正確に言うと一昨日の)一冊
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