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マラソンのペースメーカーに思う
2月2日は別府大分毎日マラソン。通称「別大」はランナーの聖地ともいわれ、同時にエリートランナーの選考会ともなるレース。僕も過去に2回走った。1回目は60歳でサブスリーを達成し、抽選無しで走れるカテゴリー3。2回目はコロナ開けで3時間30分以内のカテゴリー4の抽選枠を広げた64歳の時。このときのネットタイム3時間0分19秒にはいまでも悔しい思いが残る。何にしてもスタートに並ぶときからガチの雰囲気が満ち満ちていて市民ランナーにとっては、ちょっと憧れる大会であるのがよくわかる。今年も出ようか迷ったが、できれば抽選無しの資格、すなわちサブスリーに返り咲いてのお楽しみにしようと応募をやめた。高齢者がそんなこと言っているともう走れないか?
主役はペーサー?
ということで先週の別大はテレビ観戦。暮れから1月にかけては駅伝が多いのでニューイヤー、箱根、都道府県などランニングイベントのテレビ観戦が続く。でもなんか今回別大を見始めて違和感が起きた。当たり前だがテレビではエリートランナー、それも第一集団を放映する。第一集団が三十人近くの大集団ということもあったが、なんといってもペースメーカーが仕切っていて、これがレース?という感じなのだ。ケニアやエチオピアのペーサーとともに上野さんがリーダー格。キロ3分ジャストで集団が走るように身振り手振りのアクションでペーサーチームや選手をコントロールする感じが目立つ。テレビの司会者も「ペーサーがいい仕事をしてますねー」みたいなコメントはするわ、解説の瀬古さんや原さんも前半このペースでいけば2時間6分30秒の基準タイムがクリアできますね、みたいな話ばかり。ネガティブスプリットで後半上げて記録を狙うことが多い現在、これがマラソン日本を強くする流れらしい。昨今の東京マラソンでもレースディレクターがバイクの後ろに乗ってレース中も細かくペーサーに指示を出していたと書いている。マラソン大会の演出家の如しである。でもオリンピックや世界選手権、代表選考トライアルなどではペーサーを認めない。フェアでないからとの理由らしい。じゃあ他のマラソンレースも「フェア」な方が良くないか?
マラソンにペーサーは必要か?
マラソンが高速化して記録が伸び続ける背景にはペーサーの果たす役割が大きいことはわかる。数年前に非公認でキプチョゲ選手が2時間ぎりを果たしたラン・イベントでは数十人のエリートペーサーを彼一人のために交代で配していた。自分でペースを考えずに、誰かについていくのが楽だというのは市民ランナーでもよくわかる。向かい風の時など風除けにもなってくれる。実際僕もマラソンを走る時は5k過ぎたぐらいから目標ペースに近い走りをしているランナーを前方に探し出してついていく。しかしそれはあくまでも自分の調子を見ながら自分で勝手に選ぶわけだ。ウルトラなどになれば前後離れてしまい単独走になることがほとんど。最近の市民マラソンでは3時間、3時間半、4時間、5時間などペーサーがつくことを売りにしている大会も多いが、正直言って僕にとってはどうでもいい。世界を狙うアスリートが1秒を削り出すためにペーサーの助けを借りたくなる気持ち、スポンサーが視聴率を上げるために記録を出しやすいようにペースやコースをいじりたくなる理由はわかる。でも市民ランナーの多くは毎日一人で走っているはずだ。走るのが楽しくて、走り続けるうちに速く、長く、走れるようになった、それだけのことだ。確かにPBが出るのは楽しみだ。SNSにあげてみんなの賞賛をもらうのも嬉しい。でも人に助けてもらってまで完走や記録にこだわり始めると、走り出した時の喜びを忘れてしまう気がする。僕にとってマラソンの素晴らしいところは自分で自由に計画し、自分のペースで自由に走れること、freedum !! だな。じゃあ、あなたは記録にこだわらないの?と聞かれればこの年でサブスリー復活を目指す自分に酔っているから偉そうなことは言えない(笑)。
こどもの頃の福岡国際マラソン
話をエリートマラソンに戻そう。僕が子供の頃のマラソンといえば福岡国際だった。東京オリンピックのアベベの独走、円谷の銅メダルは小学1年だったので流石に覚えていない。1967年、福岡国際のラジオ中継?で流れたクレイトンの2時間10分切りという当時としては驚異的な世界記録が記憶の始まりだ。中学時代はなんと言ってもフランクショーター、彼らはほとんど前半か中盤で飛び出していたと思う。後半は独走である。対照的なのが瀬古。瀬古さんは同世代でもあり三重のインターハイ1500mの頃から注目していた。僕はそれほど陸上に興味が強かったわけではない。それでも大学時代は福岡国際の中継で瀬古、宗兄弟、イカンガーといった面々の前半から終盤までの競い合い、そして最後のトラック勝負にはめちゃくちゃ興奮した。もちろんペーサーなどいない。でもタイムは2時間8分〜9分台が出た。カーボン厚底シューズなどないことを考えると5〜6分台の今より速いかもしれない。僕にとってマラソンマンは超人だった。外科研修に入った後の1987年、雨の福岡国際、中山の激走も凄かった。調べたらこの頃の福岡国際の視聴率は40%超えだったらしい。10%も取れない今から見れば驚異的である。原さんはあの手この手で箱根からマラソンを盛り上げましょうという。でも当時を見てきた年寄りにはペーサーや演出、記録そのものよりもランナーからほとばしる自由な勝負魂が見るものを惹きつけた気がする。選手の管理、ペースの管理、記録信奉、行き過ぎればマラソンをつまらなくする。瀬古さんもそう思わないかなあ。何はともあれ、今年の別大、若林選手の最後の熱走に心動かされました。ありがとう!