
小澤メモ|NOSTALGIBLUE|思い出は青色くくり。
51 デカフ・モーニング・クラブ。
そんな時代もあったよね。
コロナ禍、そういう時代があった。そんなふうに思い返すときがくるのだろうか。それとも、新型コロナへの対症療法に苦心しながら、社会と人の新しい距離感(清潔感とかマナーとか)を築き上げていくのだろうか。コレラやペストが世界中で猛威をふるった、コレラやペスト、梅毒やスペイン風邪……。さらにはエイズやエボラなど、パンダミックを引き起こすウイルスや病原菌を、人類は克服しきったわけではない。ただ、多くの犠牲を伴いながらもこうして時代は紡がれている。だから、受け取ったバトンを次へと渡せるように、今は自分ができる最善を尽くすしかない。1970年代のオイルショックで、トイレットペーパーを買いあさっていたパニックを、ついこないだまで過去の狂騒曲だと笑っていた人たちが、デマひとつでトイレットペーパーやティッシュが一瞬にして街から消える片棒を担ぐことになるなんて……。
新しい用語できたよね。
コロナ禍で、飛び交ったカタカナ。それまで聞いたことがなかった、ソーシャルディスタンシング、クラスター、オーバーシュート、ロックダウン、アラート……。聞きなれない言葉で、より注意力が高まったり、話題になったりして、効用があるのも事実。その反面で、環境の変化と新用語の氾濫は、一定数の拒否反応を生むことになる。万能薬ならぬ万人が納得する大正解なんてないのはわかっているけれども、今回のコロナ禍では、常に2011年の原発事故のときの社会や行政がどうだったかを思い出し、よく考えるようにしていた。そんな中で、小池都知事やア●●マスク元首相が発したカタカナとはまた別の、自分やその周囲で生まれた新しい言葉というか用語というか意識というか、そんなものがいくつかある。「コロナ禍、そういう時代があったよね」と、いつか言えたらいいなと思いつつ、そのいくつかをメモ(ノート)しておこうと思う。自分のテンションの記録として。
マナーや公共ルールも変わった(変わるべき)けれど。
2020年上半期は、いろいろ造語を口にした自分だけれども、もっとも周囲の人に使った言葉は、次の3つだろうか。プレデター症候群、金太郎飴イズム、そして、デカフ・モーニング・クラブ。プレデター症候群というのは、映画『プレデター』のような戦闘もの映画たちにみる、散りキャスト(途中で散っていってしまう準主役級)を思い出してほしい。物語の前半、かなりイイ味出してて、もしかしたら主役以上にキーになる役どころじゃないのか?!というイメージづけをしてくるキャストがいる。物語の後半にグッジョブしてくるんだろうなと思った矢先、前半のピークで、あっさりと散っていく。あ、まじ?というやつ。そのわかりやすい例が、プレデターのビリーソール。彼はネイティブアメリカン・スー族の末裔という設定。鋭い第六感を持ち、そう、前半段階で、誰よりも早くプレデターの存在を最初に察知した人物。かなりやるヤツ、シュワルツネッガー演じるダッチ級の強者に違いないと思いきや……丸木橋の上でマチェテのみでプレデターを迎え撃つが、目前に現れたプレデターにあえなく殺され、頭蓋骨をトロフィーにされてしまうオチ。
Social distanceと、Social differenceも認め合えたらいいなあ。
ようは、いい線いってて、最初は良いこと言うのに、結局、疲れてか、あきらめてか、開き直ってか、とにかく、あーあと散ってしまう。物語の最後まで初志貫徹できないこと。それを、勝手にプレデター症候群と呼ぶ。コロナ禍では、マスクを買い占めたり、アルコール消毒を常備していたのに、2、3ヶ月もしたら、(科学的根拠はないけれど、自分に都合がいい情報の取捨択一によって)もうアンチ・コロナケアになっているような感じが、プレデター症候群かなと思ったりした。人は人、自分は自分。それまで見えにくかったウイルスに対する価値観の違いという透明なカーテンが、より可視化できるようになったのは否めない。より一層、それぞれの違いを認め、自分をどうするべきか鑑みる気持ちが大切になってきた。金太郎飴イズムというのは、どこを切っても同じ金太郎の顔がある金太郎飴のように、自分史において、いかなるときを切り取っても本質的な部分(価値観や責任感や基本理念や行動原理など)がブレないでいること。環境や年齢によって変化するものは多い。でも、正しいことは普遍的でありたい。ただそれだけのことを言う。
デカフ・モーニング・クラブ。
そして、デカフ・モーニング・クラブ。これは、直訳すればカフェインレスなモーニングコーヒーを飲むこと。早朝にプレイする、バチバチの濃厚接触なフィジカルなプレイグランド・バスケットを、ガツンとくるエスプレッソのショットに例えるなら、接触プレイなし(対人フィジカルというカフェインなし)、コートもボールも共有しないで、黙々とシューティングとファンダメンタルを徹底するバスケットはデカフ・モーニング・クラブというわけ。このコロナ禍において、プレデター症候群にならずに、たとえロバの耳と揶揄されようとも、とりあえずは、自分が覚悟できるまでは人に迷惑をかけないのを意識しながら防疫的行動をとるということについても金太郎飴イズムで、心がける。それでもプレイすることを愛し、バスケや体を動かすことも必要だったら、今はデカフ・モーニング・クラブで対処するようにしている。NBAのプレイオフを見て、プレイしたい気持ちが熱くなっている今日この頃、そうやって自分を励ましている。とにかく。新型コロナだけでなく、人類にだけでなく自然環境などのことも含めて、自分たちにはいろいろなことがある。だから、本質的に冷静かつ他者批判にとらわれてしまわないようにしたいと思っている。51