2022|作文|365日のバガテル
2022年、体重計。
風呂上がりにノリで書きはじめる。
自分の体重について、この先のために書いておこう。なぜ、そうしたくなったか。それは、さきほど湯船の中でふうっと吐いた、心地よい方のため息ついでに思い出したことによる。(今年で50歳になるのか)。普通は、齢をとったなと自嘲しながら、湯に浸るところだろうか。私は、40歳を超えてから、とっくにオヤジではなくジジイになっている(見られている)と自覚している。ファッション的な若作りにももともと興味がない。というか、若い頃から、渋くてジェントリー(けばけばしくない)なセットアップを着こなしたかった。だから、今さら50という年齢を実感したところで、急に老いを感じることはない。シワが刻まれた顔や艶のない肌といった外見的なところではなく、もっとフィジカル的なところでの実際的な老いを感じるのは、もっと先だとも思っている。で、湯船でため息とともに感じた、(今年で50歳になるのか)というのは、何を思い出させたのか。それは、ちょうど20年前。歳の離れた、若いバスケット仲間にそそのかされて始めた自宅トレーニングのこと。その彼は、バスケと並行して、筋トレに精通していた。今でこそ、インスタグラムで自撮りするトレーニーたちが当たり前になったが、当時はインスタグラムやSNSなんてなかった。ライザップとか、パーソナルトレーナーなんていうのもなかった。彼は、本気で体を大きくしていたので、ファッション誌なんかで見る『細マッチョ』なんていうキャッチコピーに、よく噛みついていた。細いヤツは、その時点でマッチョじゃねえからと。まあ、それは彼が正しい。しかし、実際に万人にウケるのは、丸太のような上腕二頭筋より、忌み嫌う細マッチョという、ただのガリガリ君だったりする。今は、そうでもないと思うけど。
また話が長くなっていく。
自分でいうのもなんだけれど、当たりあいのバスケットを通じて実感していたが、体幹が元来強いタイプ。高校時代も、コーチに「おまえはトレーニングルームに行く必要がない。それより下手くそなシュートの練習をしろ」と言われていた。だから、スポーツ少年が一度は通る(というかハマる)、筋トレというルーティーンワークをしたことがない。当然、腕力が強いわけじゃない。それは、鍛練した者が得るものだ。私は、腕立ても限界までやったことがないし、懸垂は数回やったらやめてしまうし、腕相撲なんかは利き腕が左というのもあって、周囲と比較ができなかった。ただ、体幹は強く、当たっても転がるのは相手の方だし、シュートも打ちきることが必ずできた。話は逸れるが、水泳教室に通ったことはない。だからクロールやバタフライが速いわけではない。しかし、小さい頃から潜水は50メートルまでいけてしまった。とある病院で、血液検査やなんやかんやの一切合切をしてもらったときに、その病院で歴代2位の血液が酸素を運ぶ量が多いとかなんとかって、医者が言っていた。という感じで、人並みの力やマッスルな体躯があるわけではないが、人よりフィジカルで優れたところがあるという、わかりにくい得意というか特異があるところが、ある。それで、高校のときに体重が72kgだった。身長は182cm。ティーンは、背は大きくなるが線は細いイメージだけれど、ゴツいわけじゃないしバルキーでもないのに、体重は年齢の割にまあまああって、当時、それはそれで少し気にはなったのを覚えている。そして、バスケ部ではなく、常に柔道部に誘われていたのも覚えている。
筋トレをしたことがなかったということ。
説明が長いな。とにかくバスケをはじめ、スケボー、サーフィン、草野球、サッカーなどいろいろ体を使って遊ぶことが好きなまま、それをやり続けてたら、30歳になっていた。で、さっきの歳の離れたバスケ仲間の彼。曰く、「バスケを続けるにも、思いきり遊ぶにも、そろそろトレーニングはした方がいいよ。どうしたってフィジカルは衰えていくから、ケガが増えるよ」ということらしい。実際に、それまでケガをしたことがなかったが、その頃に、初めて肉離れを立て続けに経験するようになった。それで、私は、彼のようにバルキーにはなりたくない、体重を増やすのは自分のプレイスタイル的にしんどそう。それと、ジムは主がいたり、いろいろな人の目があるので、行きたくない。そういうリクエストをした。彼は、明らかに、「何を言っているんだ? トレーニングはデカくなるためのものでもあるんだぞ」という思いから、不満げな顔をしていた。しかし、とにかく私を筋肉トークや筋肉謙遜の仲間にしようとたくらんでいた彼は、割と軽めなメニューを授けてくれた。自宅でやるにはちょうどいいという5kgから10kgまで調整可能なダンベルを一緒に買いに行った。渋谷の東急ハンズだった。人生で初めてのトレーニング道具だった。そして、そのダンベルは20年経った今でも使っている。そそのかされてはじめたトレーニングだったが、当時の体重は確か77kgだった。72kgから何をどうしたって、暴飲暴食したって72kgのままだったのは30代手前までの話。「俺は太らない!」と豪語していたのに、30代に突入すると、食生活の乱れはそのまま体重にフィードバックされるようになった。その彼は、太れ、そして筋肉をつけてもっと大きくなれ、と思っていただろうが、私はとにかく適量の筋肉をつけて燃焼しやすい体にして、体重をカットしていきたいと思った。
普通は成果が見えないトレーニングなんか飽きてしまう。
で、私は自分の目論見通り、体を大きくすることなく、ひたすら筋持続力と体幹を強くしていった。酒とタバコをやめたのも大きいかもしれないけれど、体重は71kgから72kgの間を常にキープしている。現状維持というか。マッチョな見栄えがいい体になったわけでもなく、かといってカリカリのモデルさんみたいになったわけでもない。ひたすら高校時代の体重をキープしているだけ。あの30歳の時にはじめてダンベルを手に入れ、はじめてトレーニングをする気になったあの日から20年、ひたすら(メニューは増やしたり進化させてはいるけれど)続けてきた。大きくなるという成果が見えないメニューを、ひたすら20年続けるのは、なかなかできないと思う。面白くないから。だけど、私はなぜかそういうのが得意だ。ひたすら続けることができる。たぶん、アホなんだと思う。とはいっても、外見はシワが増え艶もないジジイになったかもしれない。しかし、ひたすら変わらない体重。私は、それが気に入っているのだった。それは、なぜか。ひたすら変わらないことがあるならば、他のことを変えていくチャレンジが楽しくなるから。齢を取ると、どうしても肥満やメタボや生活習慣がネガティブ要素になって、そこを戻すとか、変えるとか、もしくは悪い方へとどんどん変化してしまって、とらわれていってしまう。そこを、普遍的にできれば、他の、例えば性格をもっと朗らかにしたいとか、ガンコに硬くなりそうなところをほぐしたいとか、そういうことに変化力を使うことができると思う。だから、私は毎朝体重計に乗る。その自分にとっての普遍的なただの数字、72kgを合図にして、(今日も新しいことに気づいたり挑戦しよう)という気持ちを整える。
思えば、30歳のあの日。ダンベルを手にいれて、最初のトレーニングメニューを、その彼に施してもらったとき。彼はこう言い放ったのだった。
「ようこそ! これでどんどん鍛えてったら、とりあえずは50歳まではやめないって思わないとですよ」
なぜか。
「中途半端に大きくして、途中でやめたら、胸筋とかただのおっぱいになってしまいますからね。そうしたら、あとは一度絞って痩せて、キャシャーン(脂肪に変わってしまった筋肉をそぎ落とすこと)になるところからはじめないといけなくなります。つらいですよ」
その時は、(50歳まで、、、20年間かぁ。長いなぁ)と愕然としたものだった。しかし、今、その50歳になろうとしている。そして、変わらずに体重計は72kgを指し示している。私は、湯船の中で、ため息の続きにこう思った。誓った。ここから20年。とりあえず70歳までは、このまま続けていこう。そういうキープオンをする人間になろう。そう思って、その姿を想像して、心地よい方か、まだ先は長いなというげんなりめの方か、判然はしなかったが、もう一度ため息をはいた。