【第10回】レーガン・サッチャーの新自由主義とゴルバチョフのペレストロイカ
【第2次世界大戦後の「冷戦」下における「戦争」の構図】(1950年~1980年)
【第10回】レーガン・サッチャーの新自由主義とゴルバチョフのペレストロイカ
第10回≪問い≫
1.テーマ:レーガン・サッチャーの新自由主義
・レーガン・サッチャーの新自由主義とはどのような政策か?
2.テーマ:日本の中曽根政権と東アジア
・中曽根政権はどのような政策を展開したか?
3.ソ連ゴルバチョフのペレストロイカ
・ゴルバチョフのペレストロイカでソ連はどのように変化したか?
≪問題提起≫
1.レーガン・サッチャーの新自由主義とはどのような政策か?
1984年のレーガン大統領の一般教書演説は、ヴェトナム戦争で肥大化した1970年代の経済的苦境を脱して、復活と希望に満ちた80年代を展望するものであった。「レーガノミックス」である。それは軍事支出の拡大や所得税減税と社会保障費の大幅削減で連邦政府予算の均衡化を図ろうとした。減税と規制緩和によって経済成長(生産と投資)を促進し、それが政府の歳入増加を導くというサプライサイド経済学の理論に依拠し、通貨供給量の抑制を図ることでインフレを収束させ、市場メカニズムの復活と国際競争力の強化を期待した。しかし、インフレは終息したものの、財政赤字は縮小できなかった。
第2次世界大戦後の植民地の独立、1960~70年代の充実した社会保障制度や基幹産業の国有化による経済停滞、いわゆる「イギリス病」に対しイギリス首相マーガレット・サッチャーの政策は、市場主義、マネタリズム、民営化、帝国意識の再編、「小さな政府」、「強い国家」と並ぶ福祉国家の解体であった。アメリカのレーガン大統領、日本の中曽根康弘首相の政策に典型的なように、1980年代の行財政改革を梃子とした「戦後政治の総決算」の合言葉が「サッチャリズム」であった。サッチャーの政策は独特の社会観によって支えられていた。「自助」を基礎とする「ヴィクトリア朝の価値観の礼賛」は「社会などというものは存在しない」という有名な言葉を生み出した。
2.中曽根政権はどのような政策を展開したか?
1982~87年まで3次にわたる内閣で新保守政治を進めた中曽根康弘政権は、「戦後政治の総決算」を唱え、行・財政改革、教育改革を推進し、電電・専売・国鉄の民営化を実施し、1985年首相として初めて靖国神社に公式参拝し、アメリカの戦略に同調して「日本列島の不沈空母化」を表明した。教育改革では臨時教育審議会を首相直属下に置き、1987年までに答申を4回提出した。電電公社や日本電信電話(NTT)、専売公社をそれぞれ民営化した。
中曽根内閣は、「国際国家日本」を唱えアメリカの安全保障体制への同調を強め、防衛費の「対GNP比1パーセント枠」の突破、ODA(政府開発援助)の増加を図り、1985年のG5(日本、アメリカ、ドイツイギリス、フランス)でプラザ合意を得た。その後の急激な円高のもとで日本企業は貿易摩擦を回避しつつ、欧米市場に直接投資し、海外直接投資残高は、1992年には2,480億ドルとなりイギリスを抜いて世界第2位となった。
1982年の教科書検定で「華北侵略」を「華北進出」に「中国への全面侵略」を「中国への全面侵攻」に、南京大虐殺の発端を「中国軍の激しい抵抗にあい、日本軍の損害も多く、これに激高した日本軍は多数の中国軍民を殺害した」と変更させたと『朝日新聞』はじめ各紙は報道した。後にこれは誤報であることが確認されたが、中国側の抗議を受け日本側が教科書を修正する形で決着を見た。
3.ゴルバチョフのペレストロイカでソ連はどのように変化したか?
1985年3月、54歳のゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任した。翌86年2月には「ペレストロイカ」ということばで、経済、政治、法律、民族問題などを含めたシステム全体の改革を長期目標とし、2月〜3月の第27回党大会で新しい党綱領を採択した。党の最高幹部である政治局員の総入れ替えもわずか数年で達成し、更迭の理由を「イデオロギー的偏向」ではなく、わいろ、汚職、酩酊、無能、権力の乱用などになった。党大会直後4月26日のチェルノブイリの原子力発電所の事故では、その原因、処理のまずさがソ連の体制にあるとし、「グラスノスチ(情報の公開)」と活発な言論を呼びかけた。
1988年の憲法改正でソ連の最高機関として人民代議員大会を構成する代議員はソ連初の複数候補・自由選挙で選出され、1990年に導入された大統領制で、人民代議員大会でゴルバチョフが選出されたが、1991年の保守派のクーデターで人民代議員もゴルバチョフ大統領も解任された。保守派の反ゴルバチョフクーデターを西側資本へ道を開いたエリツインら急進改革派が鎮圧し、共産党は活動停止に追い込まれ、これ以後民主化は急速に進み、ソ連崩壊に至った。
写真:レーガン・ゴルバチョフ会談(85年11月ジュネーヴ)
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