僕の私淑してやまない詩聖
泣菫と白秋は僕の理想の詩に最も近い詩を遺している。
僕は、目下のところは語彙と表現力を鍛えるための機械的な作業に徹しているが、この二人の詩を読むことは、語彙を鍛えるのはもちろんのこと、言葉そのもの、言葉と言葉の綴り合わせの美しさ、その妙、その高められるだけ高められた詩才とそれを裏付ける技巧、お手本にならないものはない。
小説と詩は全く違う。鏡花のように、詩に近い小説を書く小説家もいるけれども、小説を書く筋肉を鍛えるために詩を読んでいては、腕立て伏せばかりするサッカー選手みたいで、時間の無駄かもしれないと思わんでもない。
でも、泣菫と白秋の詩を読んでいれば、おのずと日本語力は鍛えられるだろう。それは小説を書く上で無駄になるはずはない宝である。